サンフランシスコ日本茶体験

吉野亜湖「海をわたった菊川茶2」配布資料

二〇一八年六月十日 【おんぱく】菊川レンガ倉庫講演会

 

日本茶とアメリカの水

 

一月、米国・サンフランシスコにて開催された米国西海岸最大級の高級食品見本市「ファンシーフードショー 」、ニューヨークの全米茶業協会STIスペシャル・ティー・インスティチュート)などで、日本茶輸出促進協議会の事業にて開催した日本茶セミナー講座を担当させていただきました。そして、2月にボストン、ワシントンで、明治から昭和に掛けて日本茶がアメリカで販売されていた歴史の軌跡を追うことができました。

 

1月19日に渡米し、最初に向かったのは、ファンシーフードショーの会場があるサンフランシスコです。サンフランシスコの気候は、冬は雨季で雨が多いのですが、比較的温暖で、ちょうど東京の3月くらいの気温でした。

 

 展示会場の下見を終え、我々がまず向かったのが、地元のスーパーやドラッグストアです。もちろん、日本茶セミナーに使用する「水」の選択をするためです。一般の方も手に入りやすいものをと、棚に並ぶミネラル・ウォーターから、硬度の低いものを選び、いくつか候補を購入してホテルに戻りました。今回の宿泊先は、展示会場に近いということもありがたかったのですが、二階に「茶室」があったことが、日本茶PRスタッフを大いに喜ばせました。我々が「茶室」と呼んでいたのは、英語で「ティールーム」と入口に書かれた簡易な朝食会場で、朝食の時間帯以外は自由に使用できる部屋なのですが、「茶室」そのものとして使用させてもらったのです。

 

そこに買ってきた水のペットボトルを並べ、まずは冷水点でスタッフ全員が共通認識を持っていた品種の煎茶を淹れ、試飲してみました。

「え?日本で飲んでいるのと印象と違う・・・」

 

最初の候補の一本目は、日本茶のうま味がしっかり出るのですが、日本で親しんでいる茶の香りや爽やかさが感じられず、これほど水で味香が変わるのかというのを思い知らされた一杯目でした。それから同じ水を沸かして湯で試してみると、嫌味は無いのですが、期待していた茶の本来の持ち味が出てこないため、一本目は候補として残すが、次を試してみることになりました。

 

二本目は、冷水で淹れても茶の味が変化してしまう、それは湯にしても同様でしたので、却下。さらに三本、四本と試飲を重ねていきました。杯を重ね、うま味があり嫌味のない一番目の水で妥協するかと、結論が下されようとしたとき、一度却下された水と同じブランド名でも、「ピュア」と「スプリング」と表記された二種があることに気がつきました。「ピュア」の方を試して外されたブランドでしたので、期待はしませんでしたが、一応、最後の最後に「スプリング」の方も試してみようということになりました。すると、この水が一番、日本で飲む味に近いということがわかったのです。このブランド名が「ナイス」であったことから、スタッフが口々に「ナイス!」と、喜んだことはご想像いただけると思います。(御一笑)

 

既にこれだけの茶を茶室で試飲した後、「地元の水道水でも試してみましょう」と、沸かした湯と水で淹れてみました。その結果、「サンフランシスコの水道水は日本茶に合う!」ということが判明し、全員の顔が、ぱっと明るくなりました。

 

つまり、日本茶を楽しめる基盤が既にあるということです。

 

サンフランシスコ市の水道水を調べてみると、日本と同様の軟水(平均硬度55mg/l程度)で、最大の水源は、シエラ・ネバダ山脈内のヨセミテ国立公園北部とスタニスラウス国有林に建設された三つのダム群とのこと。約600ミリリットル以下のペットボトル飲料水は、公共の場での販売を禁止する条例があるくらい、水道水を安全に飲める土地なのです。アメリカの水道水は、そのまま飲めないとばかり思っていたので、日本茶を紹介するチームにとっては朗報でした。

 

これは、ニューヨークでも同じ結果だったこともお伝えしておきます。さらに、偶然にも別途調査で向かったボストン、ワシントンでも日本茶と現地の水が合うということがわかりました。(全米がそうだというわけではなく、偶然、調査に行ったところが良かったというのが不思議な縁です。)もともと明治から日本茶が受け入れられていたこれらの地で、現代も日本茶カフェがあるというのが見られたのもうなずけます。

 

富士製茶会社

明治、大正、昭和初期、多いときでは九割近くの日本茶が輸出向けに製造されていたことはご存知かと思われますが、その主要な輸出先であるアメリカの玄関口の一つがサンフランシスコ港です。サンフランシスコには、明治期、富士製茶会社の支店がありました。記録に残された住所から、偶然、見本市会場の目の前とわかり、感激しながら会場に向かう途中でその地に立つと、現在は、ブルーボトルコーヒーなどのカフェが並ぶ通りになっており、なんとも感慨深いものを感じております。

 

クリフハウス

また、大正時代に日本茶の輸出拠点、そしてアメリカの方への日本茶教育や普及活動のための日本茶カフェが、サンフランシスコの「クリフハウス」内にあったということはご存知でしょうか。現在も、当時の姿が偲ばれる形で建物が残されておりました。もちろん、日本茶カフェは既にありませんが、レストランとして経営が続けられています。ここでサーブいただいたお湯を使って在来の手摘みの日本茶を淹れ、カルフォルニアの牛乳を加えてミルクティーにし、当時の飲み方を再現してみたところ、最初は遠慮していた日本人も一口飲むと、「美味しい!」と声を上げました。明治、大正期に好まれた日本茶をかって日本茶カフェがあった場所で、その美味しさを確認できた縁にも感謝します。

 

近代、日本茶普及活動の拠点であった地の水が、日本茶に合うということを知り、翌日からの日本茶PR活動に大きな力をいただいたスタッフ一同でありました。

 

ファンシーフードショー

ファンシーフードショー会場は三つのエリアに分かれており、入り口近くのエリアには、常連の大手出展者が並び、日本茶関連ですと、伊藤園、あいやのブースを見つけることができました。両社とも、抹茶商品の紹介が目立っていました。第二エリアは、国別のブースが並び、JETROが設置した「ジャパン・パビリオン」が中央に広く取られ、その中にアメリカに支店を持つ杉本製茶、白形伝四郎商店など、米国への商流を確保している企業を中心に、各企業が小間割でブース展開されていました。会場で配布される日刊の公式案内誌には「ジャパン・パビリオン」の広告が全面一ページに、毎日掲載されており、力の入れ具合が感じられました。

 

マッチャとセンチャ

フードショーの日本茶セミナーでは、アメリカのバイヤー、料理教室の講師、農学部の学生などが参加くださいましたが、「マッチャは知っているが、センチャは知らない」というアメリカ人が殆どで、煎茶の品種別の茶を飲んだ時に、コーヒーチェーン店を経営されているオーナーの方などが、「こんな飲み物があったのか!」扱いたい!というように驚かれていたのが印象的でした。コーヒーも現在、シングルオリジンやコールドブリュー(水出し)が人気が出てきているため、グリーンティーの人気もこの流れにあるようです。

 

アメリカの出展者のマッチャ関連の商品が、ボトルでフレーバーのバラエティーがあるものや、スイーツなど多くあり、日本人よりも、アメリカ人自体が、マッチャに対して多くの工夫と広告宣伝をして、販売努力をして下さっているのを目の当たりにしてきました。

 

また、彼らの認識している「Matcha」とは、いわゆる粉末茶(煎茶パウダー)であることがわかりました。アメリカでのMatchaは粉末茶、日本の本来の「抹茶」は「セレモニアルグレード(茶道用)」と、分けて販売されています。セミナーで、粉末茶(アメリカではMatcha)と抹茶を飲み比べていただいたところ、違いがはっきりわかったようで驚いていました。ただ、アイスクリームなどスイーツの原料には粉末茶がコスト的に見合う事、粉末茶は苦みもしっかりしていることからあえてこちらを選ぶという方もあります。(日本茶輸出促進協議会のホームページより抹茶のアメリカ市場調査の報告書が出ていますので、併せてご参考ください)

 

以上、簡単ですが、資料では、本日のお茶の紹介を兼ねて、サンフランシスコの一部をご報告させていただきました。

配布資料より

 

吉野亜湖

静岡産業大学非常勤講師

 

市中の山居 ~誰が言い始めたの?

市中の山居

 

ウェブを検索すると、「市中の山居」とは利休が求めたところ~という内容の記述が多く、さらに出典も出てこないため、守屋毅『喫茶の文明史』から自身のメモとして以下にまとめておきます。

 

山居の躰・市中の陰

 

公家の鷲尾隆康が、宗珠珠光の養子)の茶亭に訪れた時の印象を、このように書き残しています。

 

山居の躰(てい)、尤も感有り。誠に市中の陰と謂うべし。」(『二水記』1532年5月)

 

この茶屋は、当時の常識としては非常に狭い「四畳半」「六畳」の小さな座敷で(『宗長日記』1527)、下京四条の北にあり「午松庵」と呼ばれていたそうです。(『茶祖四祖伝書』)

 

庭には松や杉があり、紅葉も印象的だったようで、市中にありながら山里の草庵を思わせる風情であったと言われます。

 

連歌師宗長もこの庵に共感し発句し、さらに歌人 富原統秋の「山里庵」によせて、

 

山にても憂からむときの陰家や 都のうちの松の下庵

 

と、詠んでいます。

 

紹鴎(利休の師)が師事した三条西実隆の書斎「角屋」も、都の片隅に山居の静寂を再現する意識が感じられるものであったそうです。(『実隆日記』1502年の6月)

 

利休が生まれるのは1522年ですから、彼の前時代の文化人たちが、充実した都市生活の中で、隠逸の境地を享受する場を作っていたのがわかります。

 

~ただ、この時代くらいまでは、都会の喧騒や日常から「逃れる」という意識をもった閑居というように、私は感じてしまうので、「利休が求めた」といわれると、違和感を感じてしまいます。利休の出身である堺の話題になりますと、少し通じるものがでてくるのかなと思える記述があります。~

 

この宗珠の茶室が話題になっていたころ、紹鴎は京都での遊学を終え、故郷の堺へ戻ってきました。(ルイス・フロイス『日本史』)

 

当時の堺の茶屋の様子が通詞ロドリゲスによって記録されています。(『日本教会史』)

 

「現在流行している数寄と呼ばれる茶の湯の新しい様式について」、「堺の小家に、人々は互いに茶を招待し合い、街の周囲に爽涼・閑居の場所のないことの補いとした」。

 

「町の中にそれを発見し、楽しむことを、日本語で『市中の山居』という」

 

それは、「辻広場に孤独の閑寂を見出す意味」があり、「むしろある流儀では、この様式が純粋な閑居にまさるもの」と評価されていた。

 

 

~これを読むと、茶室の佇まいについて言うだけでなく、現実社会を生きながら、どこにあろうと自身の向かい方で隠逸者の求めた精神性さえ実現しうるという茶道の意識も見られます。そういう意味では、利休が求めたというのか、茶道の意識を利休に代表させているのであれば、茶道が意識しているところを表す言葉だとも感じられます。

 

追記として、イエズス会によって、1603年~1604年にかけて長崎で発行されたポルトガル語の日本語解説辞典『日葡辞書』では、「街辻のなかや、市や衆人のなかにあって、遁世者となっていること」と解説されているそうです。

 

「市中の山居」誰が言い始めたのか?
利休ではないと思われます。また、利休より以前に文化人たちに「市中の山居」の意識はすでにあったということですね。

 

以上、たまたま手に取った守屋毅『喫茶の文明史』淡交社,平成4からのメモで、引用文は原典にあたってませんので、ご興味のある方は原本をご確認下さい。

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吉野亜湖

静岡産業大学情報学部非常勤講師

日本茶道塾 茶道教

 

 

抹茶用の品種~茶道家が知らないこと

「茶道家って製茶について知らないですよね」

 

茶道の先生というのは、茶の生産や製造に興味ない人が多いように思いますと、茶業者の方から言われたことがあります。

 

今回は、抹茶の生産現場を見せていただきましたので、覚書としても書き残しておきたいと思います。

 

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宇治 上林記念館 秀吉の宇治茶園の関心を著わした書状

(秀吉のころは茶園の管理から気になっていたことが書状からもわかります)

 

宇治駅近くには、抹茶を品種ごとに飲み比べることができる日本茶カフェ「GOCHIO」があります。

 

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こちらで、まず、「あさひ」「さみどり」の二種を試飲しました。

 

果たして、品種ごとにそれほど違いがわかるものなのでしょうか?

抹茶を茶室ではいつも、茶師が合わせてくださったものは飲み比べる(濃茶)ことはありますが、品種ごとに飲む機会がなかったので、半信半疑で薄茶を一口。。。

 

すると!非常にそれぞれの個性が際立って感じられ、驚きました。

 

あさひ:ずっしりとしたボリュームが舌に広がり、絵で例えるなら大きな山、音楽なら重低音を奏でているような味香です。

 

さみどり:一本の線がすーっと描かれていくようなすっきりとした味、その線は横ではなく縦に伸びていくような味わいですので、高音で細い音がする楽器をイメージしました。

そんな感動を受けて、いざ、茶園にお伺いすると、、、

 

すっと直立型で伸びた新芽、葉の姿もすっきり。そんな茶樹が覆いを掛けた茶園の下で、すでにたくさんの新芽を蓄えていました。

 

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そう、これは、お味のイメージと同じ、「さみどり」です。

そして、後ろを振り向くと、ぽってりと広がる深い緑の葉がついたこの茶樹。

こちらが「あさひ」です。

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「私たちは、二葉目くらいの新芽を直接口に入れて、畑の状態を看ます」

園主の清水さんが、「あさひ」と、「さみどり」の芽葉を試食させてくださいました。

 

先ほどいただいた薄茶と共通の味がして(それは煎茶よりもより強く感じられ)、抹茶は茶葉を粉砕してそのままいただくのだから当たり前と言えば当たり前なのですが、再度、驚きでした。

 

また、摘み方が「あさひ」は葉だけを摘む「しごき摘み」、「さみどり」は、柔らかい茎の部分も一緒に摘む「折り摘み」であることを教えてくださいました。

 

しごき摘みは熟練者でないと、葉を傷めてしまうため、より難しいのだそうで、「茶摘みさん泣かせ」と言われる品種もあるそうです。

 

その違いを見れる機会があればと思います。

(所感として)

濃く点てる「濃茶」に関しては、茶室では味香を取り上げ、茶師名を聞いたりなどありますが(また濃茶を数種飲み比べる式法も江戸中期から確立されてきた)、

 

今回、品種の茶を単体で薄茶で頂いて、最終的に茶師によって調和されて濃茶となったとき、単体の楽器演奏からオーケストラの演奏のように深く、広く、豊かで、コンサートホールを出てからもしばらく余韻が続くような味わいになるのだなと実感しました。

カフェで薄茶を品種単体(今のはやりの言葉でいうならシングルオリジンというのでしょうか)で味わうのもとても抹茶としての楽しみが広がると思います。そして、それを知ると、より、茶師の方たちのお仕事を楽しく感じられるように思いました。

知るきっかけ、そして時間を与えてくださった皆様に感謝し、抹茶を、茶道を愛する方にもこれからお伝えできたらと考えております。

 

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吉野亜湖(茶道家

Ako Yoshino

静岡産業大学非常勤講師

日本茶インストラクター

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

抹茶を愛する方へ Dearest All Matcha Lovers

宇治の茶園清水屋さんにて、本簀(ほんず)栽培の藁振り作業を見学させていただきました。

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宇治 上林記念館所蔵 江戸時代(文化五年)の茶園の藁振り作業の画

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2018年4月12日 スウェーデン人の日本茶伝道師ブレケル・オスカル氏作業の画

 

抹茶用の碾茶(てんちゃ:石臼で挽く前の葉の状態)の茶園です。

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碾茶の栽培は、摘み取りの一か月前に覆いをかけて栽培されます。まるで「箱入り娘」のような扱いですね。

 

現在、こちらの茶園では、コンクリートの柱が立ち、鉄柱が天井枠に使われていますが、昔は竹ですべて組んでいたそうです。

 

それでも、やはり、上に登れば、足元は細い鉄パイプの上しか歩けませんので、「綱渡り」のような状態での作業です。

 

そこで、竹の棒をバランスを取るときの支えとして活用されていました。

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この竹の棒、バランスを取るためだけでなく、先が割れていて、巻き損じた所や多めに巻いてしまった部分を調整するにも使います。

普段は立てて置くので、下から見ると、どこに人がいるかの目安にもなります。ただ、撒いているところは、藁が雪のように降ってくるので、下から見ればすぐわかるのですが。

*オスカルさんのFB記事(動画)参照

www.facebook.com



この落ちてきたものは「シビ」(藁の葉の部分)と呼ばれ、茶の樹におちたシビを取ることを「シビ取り」と言い、藁を撒いたあとに、シビ取りの作業も行われます。

取ったシビは、畝の間に巻いておきます。(この後、番茶の葉が刈られる場合も上の藁が畝間に敷き詰められてからの摘採になるそうです)

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(シビがたくさん落ちてます)

 

最初に、藁を保管している小屋に行くと、ぷう~んとあの若畳の香りが漂ってきました。

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藁小屋に案内された後、清水さんから上で行う作業のレクチャーがありました。

①束になった藁を首からかけた専用のカッターで切り外します。すると、さらに偶数の束になっているため、一束ずつ外してばらばらにします。(偶数なのは、足場を一回固めて前方に撒いてから、後ろを向き、逆方向にも撒くためです。)

 

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①             ②

 

それから両手で持ち分け、振るようにしてバラし(この時、自然に足元には撒かれる)、遠くに飛ばすような気持で、振りながら撒いていきます。

 

清水さんの振り方は、シャンシャン、シャンシャン、と藁が鳴き、二拍子のリズムでした。

 

均等に撒かないと、茶に光が当たるところと当たらない部分での差が出てしまうため、出来るだけコツとして、遠くに撒くことで、自然に足元の方は落ちていくということでした。初心者はどちらかというと、足元に固まってしまうそうです。

慣れないと、練習初回は確かに言われた通り、足元に固まります。

 

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師匠の手本は、遠くまでかつ、左右均等です。

しかし、練習三回目くらいでコツをつかまれたオスカルさんは、師匠にお墨付きをいただき、すぐに本番となりました。

 

覆いは、このような伝統的な本簀(藁を掛ける)のは稀になり、黒い寒冷紗を用いる方が多くなりましたが、やはり、藁の方が中が涼しく、湿気があるなど環境の違いがあるそうです。

そのためか、本簀茶園の茶は、香りが深く豊かだと言われていました。

 

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被覆栽培(覆下栽培)

日光を遮ることで、葉が光を取り入れようと広く開き、葉緑素を多く作るので緑が濃くなり、味もふくよかかつ、やわらかになる(苦渋味が抑えられ、うま味が豊かになる)そうです。

 

そして、「かぶせ香」という海苔のような独特の香りがつきます。抹茶を飲むとき、茶碗から立ち上る「かぶせ香」に意識を向けてみたら、茶園で覆いを掛けて育てられている光景と重なりそうですね。

 

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よく「一芯二葉」を摘み取る、と言いますが、碾茶の場合は、「八葉」くらいまで摘むそうです。

 

こちらで栽培されていた品種は、「あさひ」と「さみどり」でした。

「あさひ」はしごき摘み
「さみどり」は折り摘み
と分けているそうです。

摘採の時にまた見学に行かせていただけたら有り難いと思っております。

叶ったら、またご報告申し上げます。

抹茶そして日本茶を愛する皆様へ


(最後に)清水さん、オスカルさん、ありがとうございました。

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吉野亜湖(茶道家
静岡産業大学情報学部非常勤講師

日本茶インストラクター

 

 

 

 

 

 

 

茶葉缶詰があった?

缶入り茶

と言えば、液体のお茶が缶に入っているのをイメージしますが、

缶詰茶葉があったようです。

『貿易茶物語』(前の記事でもご紹介してますね)

静岡茶の静岡駅にて販売」

大正十年吉川合名の社長らが、煎茶一ポンド入り缶詰を茶業宣伝のため、静岡系内売店及びホームにての立ち売りを計画、売りさばきました。(ダイジェスト)

 

工場はサスガ石垣の工場で、角缶でブリキ印刷されて売り出したことで、お茶の大きな宣伝となったそうです。

缶が残っていないのが残念ですが、フェルケール博物館の缶詰ラベルコレクションを拝見して、お茶もそういえば、缶詰があったな、と記憶をたどり(実際は見てませんが、記録で見てたので)メモがてらお書き添えします。

吉野亜湖

静岡産業大学非常勤講師

 

日本茶が着色されていた??混ぜ物もあった??

明治17年静岡県茶業取締所が設置され、
輸出用の日本茶他の植物などの葉や茎を混ぜたり
粗悪な茶を製造することを禁止してきました。
着色については・・・
茶製造の時点では禁止していましたが、
輸出用の「仕上げ過程」では、輸出当初から外国商で中国人指導の下で行っていたため、静岡県内でも黙認していたそうです。(『静岡県再製茶業史』p60)
しかし、アメリカで1911(明治44)年に着色茶の禁止令が発令されたため、組合で一切、着色茶を取り扱わないということを決め、 警察官の立ち合いの中で、着色原料を「河川に投棄するか、地中に埋没させた。静岡市では安倍川に投棄した」とありました。(p62)
この安倍川に投棄したお写真が当時の茶業誌『茶業之友』に掲載されています。
また、『貿易茶物語』には、「再製業者や荒茶を扱うヘリヤ商会などから回収した着色顔料、石膏黒鉛及びウグイスと称する釜茶用の着色を安倍川に集め流しました」「用宗海岸から久能海岸まで一週間くらい海水の色が変わった程でした。」とあります。


売却して価値あるものは、組合が買い上げて棄却したそうです。 当時廃棄した着色料の主なものは、

アメリカで茶の検査員が体調を崩していったことから問題視されていったと他書にありました。

 

その後も取締員を置いて、着色禁止を励行させますが、違反者は絶えず、

 

大正3年、新聞広告で「茶業組合に密告した者には金五十円以内の賞金を授与する」と、取り締まりと検査を強化したそうです!!

 

これ以降、輸出用の茶には、「UNCOLORD」(無着色)の文字がラベルに記載されます。(以下のものは一例:『貿易茶物語』大石鵜一郎,H2)

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着色できなくなり、無着色の茶の艶が気に入らない外国商から要求され、工夫されたのが、「ガラ」と呼ばれる乾燥した茶葉をガラガラ回す機械です。この機械で回転を掛けることで「白ズレ」させ、銀色のような艶を出すという手法でした。(『貿易茶物語』

ガラは、釜茶だけでなく、グリ茶という丸まった形のお茶の輸出が増えると輸出茶には欠かせない工程となります。国内向けのお茶にはこのガラは必要なく、この工程を省いたものが国内向けのお茶として流通します。

 

☆これよりも前の明治九年、明治政府も「無着色茶」の製法に着手していましたが、不況時だったので「失敗」」とあります。

(以下『日本茶業史』より)

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吉野亜湖(茶道家・茶文化研究者)
静岡産業大学非常勤講師

静岡茶共同研究会事務局

(参考)
粗悪茶、また、茶葉以外のものを混ぜた偽茶問題もありました。

「ひじき、柳」を混入は、中村羊一郎先生のPDFにありましたが、

http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/12498/6/%E6%AD%B4%E4%B9%9947%20%E6%9C%AC%E6%96%872.pdf


「柳葉」「枸杞葉」を混合したというのが、『日本茶貿易概観』p108にありますが、これは嵩増し用ですね。『横浜茶業史』に、「砂」「釘」(目方を重くするため)が入っていたというのも書いてありましたが、こちらは重量で値段が決まるので、重いものを混ぜていたようです。さらには、目方を量るときに、茶箱にぶる下がる日本人の話も出てきます!p118

着色に関しては、アメリカでの検査法として、プルシアンブルー、タルク、ポムベーゴー黒色がどのように行われているか、当時の派遣員からの報告書にありました。『海外製茶販路拡張派遣員報告』p42-43,明治45


https://www.jstage.jst.go.jp/.../2001/92/2001_92_20/_pdf

そして、

1883年 4 月24日付の日本報告の中でアメリカサンフランシスコ駐在代理領事の記録にも、

日本茶中国茶の粗悪茶問題について書かれています。

古茶葉を新茶の煎じ汁に浸けて香りをよくし、藥で光沢をつける、、、って、そこまでする手間のほうが大変そうですが。。。

70~80%もこのようなお茶だというから驚きです。

そして緑茶だけでなく紅茶も偽製があったのか。。。と、分かる記述です。

「近来日支両国ヨリ米国へ輸入スル紅緑二種之茶葉中ニハ偽製ノモノ多ク、

外貌ハ恰モ精製ノ光澤ヲ帯ヒ需用ニ適應スヘキ品位ヲ顯スモ、

其質ハ粗悪ナル古葉ヲ以テ新茶ニ贗製シ、

或ハ廃物ニ属セシ

古茶ヲ上茶之煎汁ニ浸シ香氣ヲ着ケ、製煉薬ヲ以テ粉粧セシモ恰モ新茶様之光澤ヲ帯シメ輸入スル

モノ、往々十ノ七八ハ此偽製ニシテ、就中緑茶ニ贗製最モ多カリシ。斯ル贗製ノ茶ヲ嗜飲スルト、健康上最モ大害アル」

先程見つけた論文から引用。
「1883年アメリカにおける緑茶の偽装問題と新聞記事」趙 思倩

(そしてアメリカ側の動きについて)

エストフォレスト大学のロバートヘリヤ先生の調査によると、実際に当時の新聞記事などで、アメリカ人は、「どういうわけか、アメリカ人は、着色された茶の方を好む」とあるそうです。

 

しかし、なぜこの頃、着色されたお茶を輸入禁止としたのか?

 

ロバート・ヘリヤ氏の講演の中で、ちょうどその頃、アメリカ人が他の食品や薬品の安全性についても興味を持ちだした頃であり、法整備も整ってきたころであった、と解説されていましたが、以下の記事と一致します。

 

輸入用のお茶の審査は、単にクオリティーチェックということでなく、科学物質の混入などがなく、食として安全であるかということも重要な内容だったそうです。

 

(余談)記事をもう少し読んでいくと、1965 年の審査室の様子は、白衣を着た男性が着席して同じようにスプーンから茶をすすっている様子で脇に、スプーン用であろうビーカーが写っているそうです。しかし、日本で「アメリカ式」と言われる形式ですが、当のアメリカ人茶業者の方たちは、”アメリカ式”と呼ばれていることをご存知ないと聞きました。(ブレケル・オスカル氏談)

 

The Act was passed at a time when there was great public concern about the purity of food, as well as the beginnings of the regulatory structure that would come to regulate cosmetics, food and drugs. The government wasn’t just concerned about taste:

Read more: http://www.smithsonianmag.com/…/fda-used-have-people-whos…/…
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さらには!
中国茶、インドセイロン紅茶のライバルと激しく戦っているときに、これは、困るよ!とい訴えもありました。

タバコの吸い殻、石炭の粉、紙くず、古新聞、糸くず、、、が日本緑茶の包装の中に入っている。もっとひどい「不潔物」が入っているときもある!

外国商社から訴えがあったそうです。

台湾の烏龍茶も粉が多くなってきて日本茶の品質に問題が指摘されてきた大正後期、アメリカ人の嗜好もコーヒー、紅茶へと移っていく時期だったようです。

「茶業彙報. 第13輯 海外に於ける製茶事業」大正15年,p331

 
 

 

 

 

 

 

 

輸出茶ラベル「蘭字」を読む 「サン・ドライド」という日本茶とは?

「サン・ドライド」という日本茶とは?

明治、大正、昭和の日本茶の輸出茶ラベル「蘭字」を読むと、

Sun Dried(サン・ドライド)


というお茶の種類があったことがわかります。

 

そのまま直訳すると、日干し(番茶)のことかな?と思ってしまうかもしれません。

 

大正初期の輸出商の記録①*1では、薄く色づけした釜火茶(仕上げの段階で再火入れを鉄釜を用いて行った茶)と在ります。

 

「明治四十四年以前は着色いたしたので黒鉛、石膏、紺青、黄粉、パラフィン等を使用して茶に色着けをしたものでありました。その時代には釜火茶も、(1)パン・ファイヤード、(2)サン・ドライドの二種に分けましたが、これは着色の濃淡によるもので、濃いものをパン・ファイヤードと申し、淡いものをサン・ドライドと唱えたのであります。」

 

横浜居留地での釜火入れの様子については、

 

「中国人カンプという総取締がおります。女工が小さな篭に5ポンドの茶を運んでくると、カンプの号令で釜の中に入れ、40分~1時間かき回して火を入れます。(炭火でかなり強火だったようです)それを取り出すときに着色料を入れるのであります。それから冷釜に入れて20~40分かき混ぜますと光沢がでます。」

 

と説明されています。

 

ところが、明治の横浜居留地に出入りしていたと思われる人が書いた別な記録②*2籠火入れ(バスケット・ファイヤード)と同じく、籠での仕上げ火入れをした茶で、最後に、釜火茶と同じように熱を掛けない鉄釜に着色料を入れて着色したお茶、と在ります。

 

サン・ドライド製は、「籠にておよそ45分ばかり焼き、全く手揉みをなし、しかして、火気のなき釜にて薬を加入し、釜茶のごとくかき回はす」

 

共通することは、釜火入れ(一番取引量が多い)でも、籠火入れ(釜火より高級品)でも、着色された茶が「サン・ドライド」と、呼ばれていたようです。

 

しかし、パン・ファイヤードは、フライパンのパン=鉄釜のことで、ファイヤードは、火入れの英語ですので、納得できます。

 

そして、バスケット・ファイヤードも、籠と火入れ、という英語から 意味が連想できますので、納得できます。

 

では、なぜ、「サン・ドライド」日+乾燥という英語の意味を連想させない茶の名前として用いられたのでしょうか?

 

これは、不思議です。

 

それとも、太陽の色として黄色がイメージされたのでしょうか?

『All About Tea』1935の著者W.H.ユーカースは大正13年に日本を訪問し、日本茶業者に資料を確認しながら書いていますので、信頼度が高い内容と思われます。

この本の17章「Tea Trade History of Japan」には以下の記述を見ると、サンドライドは「黄色がかっていたのかと推定できます。

 

この時代(1800年後半)、釜茶は籠茶同様、中国秘伝の方法で着色加工されており、無着色であるはずの「サン・ドライド」でさえ、もっともらしい色を付けるために、何らかの黄色の物質で処理されていた

 

 

ただ、ここで、もう一つ、明治21年静岡県茶業報告第三号」③*3を見てみると・・・

 

静岡県製茶会社が輸出したお茶、「無色燥」に「サン・ドライドと、振りカナが書いてあるのです!!

 

着色していない茶、ということでしょうから、これは注目です!!

 

県から出された公的な報告書と、茶商や現場で実際に作業されていた人が書いている言葉では異なることもあるでしょうが、もし、無着色の茶をサンドライと明治前半で公式に呼んでいたのであれば・・・

 

もしかすると、本当に「日干し製」(多田元吉の明治代の講演記録では、外国輸出用には日干し乾燥をしないようにと注意をしていることもあるので、国内に多くあったと考えられます)の茶が、まさに「サン・ドライド」と呼ばれていたのではないか

 

とも推測できます。

 

日干乾燥(自然乾燥)なら、鉄釜で炭火入れ乾燥されるときに着色されることもないでしょうから、最初はそのようなお茶に対しての名称だったが、その後、その雰囲気(外観)を持ったお茶を「サン・ドライド」と呼んでいたのであれば、英語のSun Driedという名前が付いたのは納得がいくのですが。

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(『蘭字 輸出茶ラベルの100年』第六回世界お茶まつり実行委員会事務局

協力 静岡茶共同研究会)

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吉野亜湖(茶道家・茶文化研究者)
静岡産業大学非常勤講師

静岡茶共同研究会事務局




 

*1:富士製茶株式会社 原崎源作『輸出再製茶 並ニ 其沿革』静岡県再製茶業組合,大正5 

*2:田中清左衛門『製茶緊要方法録』明治20では、

*3:『製茶貿易関係史料』横浜開港資料館所蔵(粟倉大輔『日本茶の近代史』,2017,p81