日本の「みどり茶」~明治時代、アメリカ人はミルクや砂糖を入れて飲んでいた?

明治時代、主にアメリカに輸出されていた「緑茶(みどりちゃ)」

そして「紅茶(べにちゃ)」と、

ロシア向けの「磚茶(かわらちゃ)」について、

 

保田安政という方が書いた、読みやすい商学のテキスト『商人百夜草 : 家庭教育. 下』このように記されています。(明治25年)

 

「日本の輸出品の内で一番金目のものは先(ま)づ生糸でございますが、 茶も又名高い物でございますから、ついでながら申し上げませう。」

 

「今では製茶輸出は大層衰へまして、わづかにアメリカへ向けるばかりで、このアメリカへ向く品は緑茶(みどりちゃ)と申して、通常の茶でございます。」

 

 

すでに25年には、日本茶の輸出に陰りが見えてきたことが書かれていますね。

 

輸出用のお茶について、「再製」という言葉が出てきますので、もう少し読んでみましょう。

 

「輸出するときには、再製と申すことをいたします。是はスッカリ出来上がった茶を更に大きな鉄鍋へ入れてよく乾かしますのですが、ただ乾かすばかりでなく、諸国の茶を色々と調合致し、之へ薬を以て色付けするのでございます」

 

籠製釜製と二通りございます」

 

 

蘭字(輸出茶用の商標ラベル)に出てくる「バスケットファイヤード」と「パンファイヤード」のことです。着色については、別段でブログに書いてますので、ご参照ください。

 

「アメリカでは之ヘ砂糖や牛乳を混ぜて飲むのでございます。」

 

 

当時のアメリカでは、日本の緑茶に砂糖やミルク、レモンなどを入れて飲んでいたので、できるだけストレートで飲ませたいと、日本茶業界側は、当時、海外の万博に出展しては、本来の飲み方を伝えていたようですが、

 

明治のアメリカ向け日本茶パンフレットでは、ミルクと砂糖を入れることを自らすすめすることもしていました。(参照『海を渡った日本茶の広告』静岡茶共同研究会編)

最近のニューヨークなど日本茶を出すカフェでは、玉露にも砂糖とミルクやハニーが付いてきますし、抹茶ラテ、ほうじ茶ラテは日本でも親しまれていますので、最近の方は抵抗ないかもしれませんね。

 

ここでは、「緑茶」「紅茶」に、「みどりちゃ」「べにちゃ」と振りかなが示されており、読み方が現代と異なるのも面白いです。

 

「近来はロシアへも少々向きますが、これは磚茶(かわらちゃ)が、おもでございます。」

 

「又紅茶(べにちゃ)と申すものがございまして、これはご承知の通り、紅(あか)ひような、黒ひような色の茶でございます。」「しかし是はマダ少ふございます。」 

 

個人的には、輸出用の茶箱の概要についても触れているのが興味あります。国会図書館デジタルコレクションで全文読めますので、ご興味のある方は、リンク先を開いてみてください。

国立国会図書館デジタルコレクション - 商人百夜草 : 家庭教育. 下

 

それでは、〆の一文を引用して終わります。

「まづ今晩はこの辺でご免こうむります」

 

 

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松下智コレクションより「かわらちゃ」
(世界お茶まつり2016年展示品)

 

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吉野亜湖(茶道家日本茶文化史研究者)

静岡産業大学非常勤講師(「日本茶文化史」「日本茶概論」「伝統文化演習」担当)

日本の紅茶製造のはじまり ~静岡では中国式が採用された

明治初期、日本が紅茶の製造を始めたとき、政府は「中国式」を最初に採用し、すぐに「インド式」に変えました。

この中国式とインド式というのは「どう違うのでしょうか?」という疑問が残ります。


資料からわかる範囲では、

 

中国式は、明治7年に政府が発行した『紅茶製法書』*1から要約してみると、以下の製法になります。

1. 生葉をムシロの上に広げ、一時間ほど太陽にさらし、時々上下を入れ替える
2. ムシロの上で、手で押し揉む
3. 大型の茶箱に山盛りに入れ、蓋をして、蓋の上に重石を置き、太陽光の下で一時間干す。
4. 翌朝、蓋を取ると、固まった茶が紅色を帯びる。それを取り出して、焙炉の上で塊をほどきながら、細くなるまで揉む。細かい葉は取り除く。(ここは宇治製煎茶法と同じ)

最後に、三ミリくらいの穴の篩で細かい葉はふるって落とし、葉を茶箱に保管する。


そして、インド式は、インドで製法を学び、国内の伝習所で指導者をしていた多田元吉(明治8年、紅茶製法を調査すべく中国・インドに派遣された)の『紅茶製法纂要』(明治11年)から、「新法」を読み解いてみます。

 

1. 萎凋
2. 捻揉
3. 奄蒸:広げてしばらく置く。(箱などに堆積させて湿った布をかけたり、機械を用いる人も居る)

*発酵過程:元吉は、ここを長くしすぎるのがわが国の紅茶、つまり中国式だと述べ、インド式は過度にしないようにと注意しています。
4. 日光があれば先に日干乾燥させてから、焙炉乾燥。

 


この2つの書から読み解ける範囲では、捻揉と奄蒸(発酵過程)を「適度」にするのがインド式ということのようです。(あくまでのこの二つの書籍の比較からということだけですが)

そして『茶業五十年』静岡県茶業組合総合会議所(昭和十年)には、「明治四十四年にいたり三重の人伊達民太郎*2氏苦心研究、従来の支那式日干製より、断然インド式屋内萎凋製に転向し」p88と、ここにははっきり二つを並べて書いてありますので、

 

この本からは、当時”採用”した(または認識していた)、いわゆる中国式」と呼んでいたのは日干萎凋、「インド式」は屋内萎凋であった、と読めます。

 

以上は、上記の資料で探れる範囲での話です。製造のご専門の方にもご意見を聞きながら謎解きができたらと思います。



そのころ静岡では?

全国的には、インド式が伝習されていくのですが、静岡ではしばらく中国式が民間の伝習所で採用されていたそうです。(というのは、元吉の指導ではなく、中国人の指導者が入っていたという意味)

 

静岡の尾崎伊兵衛らが中心となって、有渡郡小鹿村に紅茶伝習所を開き、教師に清国人の胡秉枢を招きました。

 

これが静岡県初の紅茶伝習です。 

伝習生二〇名だったと静岡銀行史』にあるそうです。(資料未確認、引用のみ)

 

その静岡初の紅茶の先生が書いた書籍「茶務僉載(ちゃむせんさい)」

 

胡秉枢は、上海で日本領事に「日本の山茶で紅茶を作るとよい」と提案するのですが、すでにこの時期、日本では中国製法(以前招いた中国人指導者による製法がうまくいかなかったため)ではなくインド製法に切り替えていた時だったので、日本政府としては胡秉枢を雇わなかったのですが、民間で雇いたいという方が現れ、静岡に派遣されたという経緯です。


                               

吉野亜湖(茶道家・茶文化研究者)
静岡産業大学 非常勤講師
担当授業 日本茶文化史、日本茶概論、伝統文化演習

*1:『紅茶製法書』:『紅茶百年史』 (1977年)に掲載されています。

*2:大正4年 茶業中央会議所が設立した静岡市の紅茶研究所の主任となる

輸出茶ラベル「蘭字」を読もう! ~日本茶のランクについて

輸出茶ラベル「蘭字」を見ていると、

 

FineChoiceなど・・・

等級を示す文字が書いてありますよね。

 

はたして、どれが一番良いお茶を示すのでしょうか。

 

明治時代、京都の平民 田中清左衛門という人が書き残してくれた『茶製家必携製茶緊要方法録』(p12)に、

 

明治期の輸出用日本の緑茶に対し、外国商社が付けたランク(茶銘)がありました。

 

しかし、読んでみると・・・

 

1等「チョイヲイスチス

2等「チョイヲス

3等「フェンチース

4等「フェン

5等「クルミリン

6等「ミリン

 

なんのことやら、、、と思いませんか?


しかし、蘭字とよく照らし合わせて読んでみてください。

 

チョイオイスチスとは、Choicest

チョイヲスは、Choice

フェンチースFinest

フェンFine

クルミリンGood Medium

ミリンMedium

 

 

と、謎解きができます。

当時の英語を習ったことがない日本人が、耳で聞いて書き留めた音です。

 

ここから、蘭字に書いてあるお茶のランクも読めてきますね。

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(写真 四郷郷土資料館所蔵品)

 

そして、明治34年『Formosa Oolong Tea』には、日本統治下の台湾での輸出用ウーロン茶のランクについて書いてあります。

 

ウーロン茶はブランドがあり、最近はアモイ(中国)やアメリカで、以下の8段階の等級に選別されている。

  1. Choicest
  2. Choice
  3. Finest
  4. Fine
  5. Superior
  6. Good
  7. Fair
  8. Common

 

台湾の蘭字調査にもしてきましたので、

台湾の蘭字のお話しについては、また別にお書きすることにします。

                 

吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師

戦時下の日本茶の製法について~ロンドンのティーマンの味覚を落とした統制

戦時下の日本茶の製法について、資料を見つけたのでご紹介します。

前段として・・・
終戦後、昭和27年に海外視察に行った茶業者の報告書のお話から最初に。

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(写真:「日本茶市場としての北阿弗利加事情」日本茶輸出組合、昭和27年)
日本紅茶株式会社柚原社長が、ロンドンで飲ませてもらった紅茶を見て、「イギリスの紅茶の質が落ちた」と感じ、
その後、英国のティーマンたちと紅茶を審査したところ、彼らが「良い」という紅茶の診断がずれていて、イギリス人たちの味覚が戦時下の統制で落ちたのを確信し(紅茶が配給制であった)、
彼らは認めないだろうが、「統制が紅茶の質も低下させてしまった」と報告していたのが気になっていたのですが、
日本茶業史』を読んでいたところ、
戦時下、日本茶の製造法もかなり制限があったことがわかりました。
戦後、見返り物資となった日本茶アメリカに輸出すると、日本茶の質が落ちたという評価があったのですが、
戦時中、以下のような製茶に関する指導が出ていたのを見て、納得しました。
「戦時製茶法設定要綱」を簡単に引用しますと、
緑茶の製造方法として、
1.蒸し工程は、「熬熱」または「熱風蒸」とすること。
* 熬熱とは、灼熱した鉄板の上に生葉を投入して蓋をして蒸熱する方法で、釜蒸しの一種。
* 熱風蒸とは、粗揉機を蒸機に代用して蒸す方法。高温度150度の熱風を吹き込んだ粗揉機に生葉を投入する。
2.粗揉工程は、従来より時間を短縮すること
3.再乾工程は、従来より時間を短縮すること
4.精揉工程は省略すること
5.仕上げ工程についても簡単にすること、例えば、上級茶も木茎が混ざっていても差し支えない、番茶は粉を除去する程度にとどめる。

 

*ただし、碾茶(抹茶の原料となる)と玉露は例外を認めていました。
この二種は、戦時下でも製法を変えずに続けられていた、というのは特筆すべきことでしょう。(『日本茶業史』P289)

                 

吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師

 

「黒製」と「青製」があった静岡茶

静岡のお茶が近代になり、輸出に向けて製法が固定されていく前、
明治以前は、どのような茶が作らていたのでしょうか?

『茶業五十年』『静岡県再製茶業組合略史』『静岡県再製茶業史』などに、
「黒製」静岡茶の製法について記載があります。
江戸時代の天保年間 (1830年~)に宇治の「青製」が紹介される前、
静岡では、「黒製」のお茶が主流だった。
その製法は、「生葉を釜蒸とし、蓆(むしろ)の上で揉捻し、
又釜で熬(い)りさらに蓆揉を繰り返したる上、桶で発酵せしめて風乾又は熱乾する」
(『茶業五十年』p44)

静岡県茶業史』にも詳細が出ていました。

静岡県茶業史 - 国立国会図書館デジタルコレクション

黒製については、足久保の狐石にも書いてあったと記憶してます。
(リンクしておきます)

http://blog.goo.ne.jp/junko-f2/e/011c8d07dd7c2f21b4d24a7639464843

掛川東山地区の聞き取り調査や資料調査の時も、
近代以前は黒茶の製法だったということを聴き、どんなお茶だろうと思っていました。
関連で、中村先生の「 番茶の民俗学的研究 」も参考になりそうなので、メモしておきます。
(ただし、こちらは近代の製法になっていく過程です)
 
川根茶の近代史について調査された静大の先生の報告書も参考につけておきます。
http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/3393/1/090501001.pdf

                 

吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師



 

静岡のお茶のもてなし方が変わった日 ~江戸人の影響で急須を使うようになった話~

維新の際、旧旗本の人々を静岡に移した時の

勝海舟による~静岡の茶文化の話~に目が留まりました。

 

海舟の談話集『氷川清話兵站の記録」の中で、語られています。

「一万二千戸よりほかにない静岡へ一時に八万人も入り込むものだから、」とあり、当時、江戸から来た多くの客人たちへの静岡人の混乱の様子が偲ばれます。

そして、お茶を出すときは、

 

「土地の習慣で茶を出すにも茶釜で煎じて汚れた茶碗に汲み下女などもひびだらけの手で差し出したが、

二年、三年と年を経るに従ひ、それが段々江戸人を見習ふようになって、茶釜も急須になり、汚れ茶碗も立派な品になり、家の妻君などを着飾って茶を出すようになり(以下略)」

江戸の人たちが大量に静岡に入ってきたことで、

なんと、静岡の茶文化が変化したことがわかります。

 

これは、当時の記録として、面白い!ですよね。

 

大久保一翁は最初、こんなところで(こんな風に茶を出すような静岡に、零落したとはいえ江戸の人々を置いて)「大丈夫か」と心配していたそうですが、

 

海舟は、

「おれは心配は無用だからうっちゃっておけと言っておいた」そうです。

「世の変遷といふものは、まあ、こんなものさ」と、海舟。

ああ、当時の静岡の茶文化について語り残してくれて、本当に海舟に感謝です!

                 

吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師




輸出茶ラベル「蘭字」を読み解く 「アイノ茶」の語源

アイノ茶の語源は、これか?と思われるお話し・・・・

 

幕末から日本茶の海外輸出が始まり、輸出向けに仕上げ加工の手法の違いで、主に3種類のお茶がありました。

①篭(バスケット)を用いて火入れ乾燥するバスケットファイヤード=篭茶

②釜(パン)を用いて火入れ乾燥をするパンファイヤード=釜茶

 

そして、③「アイノ茶」です。

そのアイノ茶、篭茶と釜茶の中間くらいのものだから、「あいのこ」から名称がきてるのか?などというお話もあったのですが、、、、

 

『横浜茶業誌』(昭和33年、横浜市茶商組合)p120に、当時の茶業者の古老たちのお話の中に、語源と思われる内容が掲載されていました。

 

~~当時、取引された日本茶の種類について~~(以下引用)

 

「初めの中の種類は、主として天下一(名称)でしたね。(明治十二年前後迄)丁度、楊枝位いの長さに、きれいに出来ていましたね。最も、その頃は、量といつてもいくらでもなかつた様でしたよ。包装は、ふつう、荒茶をその侭、木箱(百斤箱)に入れていました、が途中、ちょつと大海(ダイカイ 紙袋)になつた事もありました。」

 

「篭(カゴ)、釜(カマ)茶が主力となりました。」

 

「合の園(あいのえん)と言うのもありましたね。篭茶と合(ごう)したやつの事です。」

 

~~~(以上)

 

篭茶と釜茶を合した、というところから「アイノ園」→「アイノ茶」になってきたのではないかと読んでます。

また、昭和五年の『茶業年鑑』(静岡茶時報社)には、「アイノコ」からきているという説が書いてあります。

「輸出茶の主流を為す釜茶(パンファイヤードPF)籠茶(バスケットファイヤードBF)の中間にある、アイノコであると言ふ所から称している」

 

ちなみに、アイノ茶は、英語名では「ナチュラルリーフ」。

日本の蒸し製緑茶で、着色もしていないお茶です。

(参考)NATURAL LEAF 本色茶(通称「アイノ茶」):1876(明治9)年、内務省が内国博覧会跡に製造場を設け「本色茶」という無色茶の製造を奨励した。基本的には籠火入れで仕上げられた。*内地向けの「煎茶」の仕上げと同じで摩擦(白ずれ)加工をしない。(『紅茶百年史』)



(輸出茶の歴史に詳しくない方は、え?日本茶って着色してたの?という疑問も出てくるかもしれませんが、別項で着色のお茶については書くことにします)

 

アイノ茶(無着色茶)と並んで、混乱されやすいのが、「サンドライド」という着色茶です。サンドライドのお話は、次回お書きします。

 

「蘭字」と呼ばれる輸出用日本茶ラベルの文字には、当時輸出されていた日本茶の種類などが書いてありますが、どんなお茶が扱われていたのか?これから少しずつ読み解いていきたいと思います。
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吉野亜湖(茶道家・茶文化研究者)
静岡産業大学 非常勤講師
担当授業 日本茶文化史、日本茶概論、伝統文化演習

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(『蘭字』井手暢子より)

 

                 

吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師