蘭字(輸出茶ラベル)から読む日本茶の輸出

「発見された蘭字から読み取る茶の輸出の変遷~富士製茶会社を中心に~」

 

菊川レンガ倉庫で2017/5/27に蘭字の講演会がございました。

 

輸出茶用のラベル「蘭字」と言えば、皆さんが今まで目にしていたものは、明治、大正、昭和初期、つまり戦前のラベルが中心だったと思います。しかし、今回、ご紹介するのは、戦後の蘭字になります。

 

 一昨年、戦後の蘭字資料が大量に、静岡のフェルケール博物館に寄贈されました。そしてその後すぐ、レンガ倉庫ゆかりの富士製茶株式会社の蘭字が200枚ほど、日本茶輸出組合から発見されたのです!こちらも戦後のもので、これにより、戦前の蘭字と戦後の蘭字を比べて見ることができるようになりました。

 

蘭字から、茶の種類や等級、輸出先が読み取れます。戦前のものには、釜で再火入れした「パン・ファイヤード」、籠で再火入れした「バスケット・ファイヤード」という名前の緑茶が主に見られます。

 

対して、今回発見された戦後の蘭字には、「チュンミー」「ソンミー」「ガンパウダー」と書かれたものが多いのです。当時、日本ではどのような輸出向けのお茶を作っていたのか、蘭字の文字から探りたいと思います。

 

戦前は主な輸出先である北米向けに英語で表記されていたのですが、戦後は、「茶」という文字も、英語の「ティー(Tea)」でなく、フランス語の「テ(Thé)」となっています。輸出先が、フランス領北アフリカ向けに変化していった日本茶の輸出の歴史を見ていただけるのではないでしょうか。

 

さらに、今回、蘭字とともに発見された富士製茶の関連資料があります。その中で注目したいのは、富士製茶 原崎源作氏の講演記録と生声のテープや日記です。氏の言葉がそのまま記録されおり、当時の茶業について語ってくれています。

 

また、昭和5年、昭和天皇の静岡への行幸の際、富士製茶をご臨幸された陛下に輸出用の茶について原崎氏が案内役を務められました。お二人の会話を記録した資料や写真が残っています。

 

今回は、新しく発見された蘭字と共に、これらの周辺の茶業史の資料を読み、蘭字の背景にある日本の輸出茶業史を見て行けたらと思います。

 

講演会当日使用しました講演資料をアップしましたので、ご興味ある方は、タイトル画像をクリックいただだくと、PDFをご覧いただけます。




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追加で、もう少し詳しく新発見の戦後の蘭字について読みたい、という方は、以下のPD Fもあわせてご覧ください。

~戦後の展開について、新発見の資料から~ 

 *上記PDFの一部訂正を申し上げます。 p71 図26 赤字の部分を訂正

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お手数ですが、ダウンロードいただきましたら、訂正をお願い申し上げます。

 

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吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師

 

 

 

 

 

 

台湾の輸出茶ラベル(蘭字)調査のご報告

台湾に残された輸出茶ラベル「蘭字」を調査に行ってきました。

月刊『茶』に寄稿させていただきましたので、ブログにもご紹介しておきます。

 

原稿にも書きましたが、台湾の茶博物館では、動画投影による効果的な展示が多く、製茶機械なども動いているところが映像で見ることが出来るため、茶業史を興味深く見ることが出来ます。

今回は、蘭字を中心に原稿をまとめましたが、日本統治時代の茶業史の他の展示も、見るもの多く、追加調査を予定しております。

 


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吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師

日本の「みどり茶」~明治時代、アメリカ人はミルクや砂糖を入れて飲んでいた?

明治時代、主にアメリカに輸出されていた「緑茶(みどりちゃ)」

そして「紅茶(べにちゃ)」と、

ロシア向けの「磚茶(かわらちゃ)」について、

 

保田安政という方が書いた、読みやすい商学のテキスト『商人百夜草 : 家庭教育. 下』このように記されています。(明治25年)

 

「日本の輸出品の内で一番金目のものは先(ま)づ生糸でございますが、 茶も又名高い物でございますから、ついでながら申し上げませう。」

 

「今では製茶輸出は大層衰へまして、わづかにアメリカへ向けるばかりで、このアメリカへ向く品は緑茶(みどりちゃ)と申して、通常の茶でございます。」

 

 

すでに25年には、日本茶の輸出に陰りが見えてきたことが書かれていますね。

 

輸出用のお茶について、「再製」という言葉が出てきますので、もう少し読んでみましょう。

 

「輸出するときには、再製と申すことをいたします。是はスッカリ出来上がった茶を更に大きな鉄鍋へ入れてよく乾かしますのですが、ただ乾かすばかりでなく、諸国の茶を色々と調合致し、之へ薬を以て色付けするのでございます」

 

籠製釜製と二通りございます」

 

 

蘭字(輸出茶用の商標ラベル)に出てくる「バスケットファイヤード」と「パンファイヤード」のことです。着色については、別段でブログに書いてますので、ご参照ください。

 

「アメリカでは之ヘ砂糖や牛乳を混ぜて飲むのでございます。」

 

 

当時のアメリカでは、日本の緑茶に砂糖やミルク、レモンなどを入れて飲んでいたので、できるだけストレートで飲ませたいと、日本茶業界側は、当時、海外の万博に出展しては、本来の飲み方を伝えていたようですが、

 

明治のアメリカ向け日本茶パンフレットでは、ミルクと砂糖を入れることを自らすすめすることもしていました。(参照『海を渡った日本茶の広告』静岡茶共同研究会編)

最近のニューヨークなど日本茶を出すカフェでは、玉露にも砂糖とミルクやハニーが付いてきますし、抹茶ラテ、ほうじ茶ラテは日本でも親しまれていますので、最近の方は抵抗ないかもしれませんね。

 

ここでは、「緑茶」「紅茶」に、「みどりちゃ」「べにちゃ」と振りかなが示されており、読み方が現代と異なるのも面白いです。

 

「近来はロシアへも少々向きますが、これは磚茶(かわらちゃ)が、おもでございます。」

 

「又紅茶(べにちゃ)と申すものがございまして、これはご承知の通り、紅(あか)ひような、黒ひような色の茶でございます。」「しかし是はマダ少ふございます。」 

 

個人的には、輸出用の茶箱の概要についても触れているのが興味あります。国会図書館デジタルコレクションで全文読めますので、ご興味のある方は、リンク先を開いてみてください。

国立国会図書館デジタルコレクション - 商人百夜草 : 家庭教育. 下

 

それでは、〆の一文を引用して終わります。

「まづ今晩はこの辺でご免こうむります」

 

 

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松下智コレクションより「かわらちゃ」
(世界お茶まつり2016年展示品)

 

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吉野亜湖(茶道家日本茶文化史研究者)

静岡産業大学非常勤講師(「日本茶文化史」「日本茶概論」「伝統文化演習」担当)

日本の紅茶製造のはじまり ~静岡では中国式が採用された

明治初期、日本が紅茶の製造を始めたとき、政府は「中国式」を最初に採用し、すぐに「インド式」に変えました。

この中国式とインド式というのは「どう違うのでしょうか?」という疑問が残ります。


資料からわかる範囲では、

 

中国式は、明治7年に政府が発行した『紅茶製法書』*1から要約してみると、以下の製法になります。

1. 生葉をムシロの上に広げ、一時間ほど太陽にさらし、時々上下を入れ替える
2. ムシロの上で、手で押し揉む
3. 大型の茶箱に山盛りに入れ、蓋をして、蓋の上に重石を置き、太陽光の下で一時間干す。
4. 翌朝、蓋を取ると、固まった茶が紅色を帯びる。それを取り出して、焙炉の上で塊をほどきながら、細くなるまで揉む。細かい葉は取り除く。(ここは宇治製煎茶法と同じ)

最後に、三ミリくらいの穴の篩で細かい葉はふるって落とし、葉を茶箱に保管する。


そして、インド式は、インドで製法を学び、国内の伝習所で指導者をしていた多田元吉(明治8年、紅茶製法を調査すべく中国・インドに派遣された)の『紅茶製法纂要』(明治11年)から、「新法」を読み解いてみます。

 

1. 萎凋
2. 捻揉
3. 奄蒸:広げてしばらく置く。(箱などに堆積させて湿った布をかけたり、機械を用いる人も居る)

*発酵過程:元吉は、ここを長くしすぎるのがわが国の紅茶、つまり中国式だと述べ、インド式は過度にしないようにと注意しています。
4. 日光があれば先に日干乾燥させてから、焙炉乾燥。

 


この2つの書から読み解ける範囲では、捻揉と奄蒸(発酵過程)を「適度」にするのがインド式ということのようです。(あくまでのこの二つの書籍の比較からということだけですが)

そして『茶業五十年』静岡県茶業組合総合会議所(昭和十年)には、「明治四十四年にいたり三重の人伊達民太郎*2氏苦心研究、従来の支那式日干製より、断然インド式屋内萎凋製に転向し」p88と、ここにははっきり二つを並べて書いてありますので、

 

この本からは、当時”採用”した(または認識していた)、いわゆる中国式」と呼んでいたのは日干萎凋、「インド式」は屋内萎凋であった、と読めます。

 

以上は、上記の資料で探れる範囲での話です。製造のご専門の方にもご意見を聞きながら謎解きができたらと思います。



そのころ静岡では?

全国的には、インド式が伝習されていくのですが、静岡ではしばらく中国式が民間の伝習所で採用されていたそうです。(というのは、元吉の指導ではなく、中国人の指導者が入っていたという意味)

 

静岡の尾崎伊兵衛らが中心となって、有渡郡小鹿村に紅茶伝習所を開き、教師に清国人の胡秉枢を招きました。

 

これが静岡県初の紅茶伝習です。 

伝習生二〇名だったと静岡銀行史』にあるそうです。(資料未確認、引用のみ)

 

その静岡初の紅茶の先生が書いた書籍「茶務僉載(ちゃむせんさい)」

 

胡秉枢は、上海で日本領事に「日本の山茶で紅茶を作るとよい」と提案するのですが、すでにこの時期、日本では中国製法(以前招いた中国人指導者による製法がうまくいかなかったため)ではなくインド製法に切り替えていた時だったので、日本政府としては胡秉枢を雇わなかったのですが、民間で雇いたいという方が現れ、静岡に派遣されたという経緯です。


                               

吉野亜湖(茶道家・茶文化研究者)
静岡産業大学 非常勤講師
担当授業 日本茶文化史、日本茶概論、伝統文化演習

*1:『紅茶製法書』:『紅茶百年史』 (1977年)に掲載されています。

*2:大正4年 茶業中央会議所が設立した静岡市の紅茶研究所の主任となる

輸出茶ラベル「蘭字」を読もう! ~日本茶のランクについて

輸出茶ラベル「蘭字」を見ていると、

 

FineChoiceなど・・・

等級を示す文字が書いてありますよね。

 

はたして、どれが一番良いお茶を示すのでしょうか。

 

明治時代、京都の平民 田中清左衛門という人が書き残してくれた『茶製家必携製茶緊要方法録』(p12)に、

 

明治期の輸出用日本の緑茶に対し、外国商社が付けたランク(茶銘)がありました。

 

しかし、読んでみると・・・

 

1等「チョイヲイスチス

2等「チョイヲス

3等「フェンチース

4等「フェン

5等「クルミリン

6等「ミリン

 

なんのことやら、、、と思いませんか?


しかし、蘭字とよく照らし合わせて読んでみてください。

 

チョイオイスチスとは、Choicest

チョイヲスは、Choice

フェンチースFinest

フェンFine

クルミリンGood Medium

ミリンMedium

 

 

と、謎解きができます。

当時の英語を習ったことがない日本人が、耳で聞いて書き留めた音です。

 

ここから、蘭字に書いてあるお茶のランクも読めてきますね。

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(写真 四郷郷土資料館所蔵品)

 

そして、明治34年『Formosa Oolong Tea』には、日本統治下の台湾での輸出用ウーロン茶のランクについて書いてあります。

 

ウーロン茶はブランドがあり、最近はアモイ(中国)やアメリカで、以下の8段階の等級に選別されている。

  1. Choicest
  2. Choice
  3. Finest
  4. Fine
  5. Superior
  6. Good
  7. Fair
  8. Common

 

台湾の蘭字調査にもしてきましたので、

台湾の蘭字のお話しについては、また別にお書きすることにします。

                 

吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師

戦時下の日本茶の製法について~ロンドンのティーマンの味覚を落とした統制

戦時下の日本茶の製法について、資料を見つけたのでご紹介します。

前段として・・・
終戦後、昭和27年に海外視察に行った茶業者の報告書のお話から最初に。

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(写真:「日本茶市場としての北阿弗利加事情」日本茶輸出組合、昭和27年)
日本紅茶株式会社柚原社長が、ロンドンで飲ませてもらった紅茶を見て、「イギリスの紅茶の質が落ちた」と感じ、
その後、英国のティーマンたちと紅茶を審査したところ、彼らが「良い」という紅茶の診断がずれていて、イギリス人たちの味覚が戦時下の統制で落ちたのを確信し(紅茶が配給制であった)、
彼らは認めないだろうが、「統制が紅茶の質も低下させてしまった」と報告していたのが気になっていたのですが、
日本茶業史』を読んでいたところ、
戦時下、日本茶の製造法もかなり制限があったことがわかりました。
戦後、見返り物資となった日本茶アメリカに輸出すると、日本茶の質が落ちたという評価があったのですが、
戦時中、以下のような製茶に関する指導が出ていたのを見て、納得しました。
「戦時製茶法設定要綱」を簡単に引用しますと、
緑茶の製造方法として、
1.蒸し工程は、「熬熱」または「熱風蒸」とすること。
* 熬熱とは、灼熱した鉄板の上に生葉を投入して蓋をして蒸熱する方法で、釜蒸しの一種。
* 熱風蒸とは、粗揉機を蒸機に代用して蒸す方法。高温度150度の熱風を吹き込んだ粗揉機に生葉を投入する。
2.粗揉工程は、従来より時間を短縮すること
3.再乾工程は、従来より時間を短縮すること
4.精揉工程は省略すること
5.仕上げ工程についても簡単にすること、例えば、上級茶も木茎が混ざっていても差し支えない、番茶は粉を除去する程度にとどめる。

 

*ただし、碾茶(抹茶の原料となる)と玉露は例外を認めていました。
この二種は、戦時下でも製法を変えずに続けられていた、というのは特筆すべきことでしょう。(『日本茶業史』P289)

                 

吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師

 

「黒製」と「青製」があった静岡茶

静岡のお茶が近代になり、輸出に向けて製法が固定されていく前、
明治以前は、どのような茶が作らていたのでしょうか?

『茶業五十年』『静岡県再製茶業組合略史』『静岡県再製茶業史』などに、
「黒製」静岡茶の製法について記載があります。
江戸時代の天保年間 (1830年~)に宇治の「青製」が紹介される前、
静岡では、「黒製」のお茶が主流だった。
その製法は、「生葉を釜蒸とし、蓆(むしろ)の上で揉捻し、
又釜で熬(い)りさらに蓆揉を繰り返したる上、桶で発酵せしめて風乾又は熱乾する」
(『茶業五十年』p44)

静岡県茶業史』にも詳細が出ていました。

静岡県茶業史 - 国立国会図書館デジタルコレクション

黒製については、足久保の狐石にも書いてあったと記憶してます。
(リンクしておきます)

http://blog.goo.ne.jp/junko-f2/e/011c8d07dd7c2f21b4d24a7639464843

掛川東山地区の聞き取り調査や資料調査の時も、
近代以前は黒茶の製法だったということを聴き、どんなお茶だろうと思っていました。
関連で、中村先生の「 番茶の民俗学的研究 」も参考になりそうなので、メモしておきます。
(ただし、こちらは近代の製法になっていく過程です)
 
川根茶の近代史について調査された静大の先生の報告書も参考につけておきます。
http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/bitstream/10297/3393/1/090501001.pdf

                 

吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師