茶葉缶詰があった?

缶入り茶

と言えば、液体のお茶が缶に入っているのをイメージしますが、

缶詰茶葉があったようです。

『貿易茶物語』(前の記事でもご紹介してますね)

静岡茶の静岡駅にて販売」

大正十年吉川合名の社長らが、煎茶一ポンド入り缶詰を茶業宣伝のため、静岡系内売店及びホームにての立ち売りを計画、売りさばきました。(ダイジェスト)

 

工場はサスガ石垣の工場で、角缶でブリキ印刷されて売り出したことで、お茶の大きな宣伝となったそうです。

缶が残っていないのが残念ですが、フェルケール博物館の缶詰ラベルコレクションを拝見して、お茶もそういえば、缶詰があったな、と記憶をたどり(実際は見てませんが、記録で見てたので)メモがてらお書き添えします。

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吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師

 

日本茶が着色されていた??混ぜ物もあった??

明治17年静岡県茶業取締所が設置され、
輸出用の日本茶他の植物などの葉や茎を混ぜたり
粗悪な茶を製造することを禁止してきました。
着色については・・・
茶製造の時点では禁止していましたが、
輸出用の「仕上げ過程」では、輸出当初から外国商で中国人指導の下で行っていたため、静岡県内でも黙認していたそうです。(『静岡県再製茶業史』p60)
しかし、アメリカで1911(明治44)年に着色茶の禁止令が発令されたため、組合で一切、着色茶を取り扱わないということを決め、 警察官の立ち合いの中で、着色原料を「河川に投棄するか、地中に埋没させた。静岡市では安倍川に投棄した」とありました。(p62)
この安倍川に投棄したお写真が当時の茶業誌『茶業之友』に掲載されています。
また、『貿易茶物語』には、「再製業者や荒茶を扱うヘリヤ商会などから回収した着色顔料、石膏黒鉛及びウグイスと称する釜茶用の着色を安倍川に集め流しました」「用宗海岸から久能海岸まで一週間くらい海水の色が変わった程でした。」とあります。


売却して価値あるものは、組合が買い上げて棄却したそうです。 当時廃棄した着色料の主なものは、

アメリカで茶の検査員が体調を崩していったことから問題視されていったと他書にありました。

 

その後も取締員を置いて、着色禁止を励行させますが、違反者は絶えず、

 

大正3年、新聞広告で「茶業組合に密告した者には金五十円以内の賞金を授与する」と、取り締まりと検査を強化したそうです!!

 

これ以降、輸出用の茶には、「UNCOLORD」(無着色)の文字がラベルに記載されます。(以下のものは一例:『貿易茶物語』大石鵜一郎,H2)

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着色できなくなり、無着色の茶の艶が気に入らない外国商から要求され、工夫されたのが、「ガラ」と呼ばれる乾燥した茶葉をガラガラ回す機械です。この機械で回転を掛けることで「白ズレ」させ、銀色のような艶を出すという手法でした。(『貿易茶物語』

ガラは、釜茶だけでなく、グリ茶という丸まった形のお茶の輸出が増えると輸出茶には欠かせない工程となります。国内向けのお茶にはこのガラは必要なく、この工程を省いたものが国内向けのお茶として流通します。

 

☆これよりも前の明治九年、明治政府も「無着色茶」の製法に着手していましたが、不況時だったので「失敗」」とあります。

(以下『日本茶業史』より)

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吉野亜湖(茶道家・茶文化研究者)
静岡産業大学非常勤講師

静岡茶共同研究会事務局

(参考)
粗悪茶、また、茶葉以外のものを混ぜた偽茶問題もありました。

「ひじき、柳」を混入は、中村羊一郎先生のPDFにありましたが、

http://klibredb.lib.kanagawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/10487/12498/6/%E6%AD%B4%E4%B9%9947%20%E6%9C%AC%E6%96%872.pdf


「柳葉」「枸杞葉」を混合したというのが、『日本茶貿易概観』p108にありますが、これは嵩増し用ですね。『横浜茶業史』に、「砂」「釘」(目方を重くするため)が入っていたというのも書いてありましたが、こちらは重量で値段が決まるので、重いものを混ぜていたようです。さらには、目方を量るときに、茶箱にぶる下がる日本人の話も出てきます!p118

着色に関しては、アメリカでの検査法として、プルシアンブルー、タルク、ポムベーゴー黒色がどのように行われているか、当時の派遣員からの報告書にありました。『海外製茶販路拡張派遣員報告』p42-43,明治45


https://www.jstage.jst.go.jp/.../2001/92/2001_92_20/_pdf

そして、

1883年 4 月24日付の日本報告の中でアメリカサンフランシスコ駐在代理領事の記録にも、

日本茶中国茶の粗悪茶問題について書かれています。

古茶葉を新茶の煎じ汁に浸けて香りをよくし、藥で光沢をつける、、、って、そこまでする手間のほうが大変そうですが。。。

70~80%もこのようなお茶だというから驚きです。

そして緑茶だけでなく紅茶も偽製があったのか。。。と、分かる記述です。

「近来日支両国ヨリ米国へ輸入スル紅緑二種之茶葉中ニハ偽製ノモノ多ク、

外貌ハ恰モ精製ノ光澤ヲ帯ヒ需用ニ適應スヘキ品位ヲ顯スモ、

其質ハ粗悪ナル古葉ヲ以テ新茶ニ贗製シ、

或ハ廃物ニ属セシ

古茶ヲ上茶之煎汁ニ浸シ香氣ヲ着ケ、製煉薬ヲ以テ粉粧セシモ恰モ新茶様之光澤ヲ帯シメ輸入スル

モノ、往々十ノ七八ハ此偽製ニシテ、就中緑茶ニ贗製最モ多カリシ。斯ル贗製ノ茶ヲ嗜飲スルト、健康上最モ大害アル」

先程見つけた論文から引用。
「1883年アメリカにおける緑茶の偽装問題と新聞記事」趙 思倩

(そしてアメリカ側の動きについて)

エストフォレスト大学のロバートヘリヤ先生の調査によると、実際に当時の新聞記事などで、アメリカ人は、「どういうわけか、アメリカ人は、着色された茶の方を好む」とあるそうです。

 

しかし、なぜこの頃、着色されたお茶を輸入禁止としたのか?

 

ロバート・ヘリヤ氏の講演の中で、ちょうどその頃、アメリカ人が他の食品や薬品の安全性についても興味を持ちだした頃であり、法整備も整ってきたころであった、と解説されていましたが、以下の記事と一致します。

 

輸入用のお茶の審査は、単にクオリティーチェックということでなく、科学物質の混入などがなく、食として安全であるかということも重要な内容だったそうです。

 

(余談)記事をもう少し読んでいくと、1965 年の審査室の様子は、白衣を着た男性が着席して同じようにスプーンから茶をすすっている様子で脇に、スプーン用であろうビーカーが写っているそうです。しかし、日本で「アメリカ式」と言われる形式ですが、当のアメリカ人茶業者の方たちは、”アメリカ式”と呼ばれていることをご存知ないと聞きました。(ブレケル・オスカル氏談)

 

The Act was passed at a time when there was great public concern about the purity of food, as well as the beginnings of the regulatory structure that would come to regulate cosmetics, food and drugs. The government wasn’t just concerned about taste:

Read more: http://www.smithsonianmag.com/…/fda-used-have-people-whos…/…
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さらには!
中国茶、インドセイロン紅茶のライバルと激しく戦っているときに、これは、困るよ!とい訴えもありました。

タバコの吸い殻、石炭の粉、紙くず、古新聞、糸くず、、、が日本緑茶の包装の中に入っている。もっとひどい「不潔物」が入っているときもある!

外国商社から訴えがあったそうです。

台湾の烏龍茶も粉が多くなってきて日本茶の品質に問題が指摘されてきた大正後期、アメリカ人の嗜好もコーヒー、紅茶へと移っていく時期だったようです。

「茶業彙報. 第13輯 海外に於ける製茶事業」大正15年,p331

 

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吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師

 

 

 

 

 

 

 

輸出茶ラベル「蘭字」を読む 「サン・ドライド」という日本茶とは?

「サン・ドライド」という日本茶とは?

明治、大正、昭和の日本茶の輸出茶ラベル「蘭字」を読むと、

Sun Dried(サン・ドライド)


というお茶の種類があったことがわかります。

 

そのまま直訳すると、日干し(番茶)のことかな?と思ってしまうかもしれません。

 

大正初期の輸出商の記録①*1では、薄く色づけした釜火茶(仕上げの段階で再火入れを鉄釜を用いて行った茶)と在ります。

 

「明治四十四年以前は着色いたしたので黒鉛、石膏、紺青、黄粉、パラフィン等を使用して茶に色着けをしたものでありました。その時代には釜火茶も、(1)パン・ファイヤード、(2)サン・ドライドの二種に分けましたが、これは着色の濃淡によるもので、濃いものをパン・ファイヤードと申し、淡いものをサン・ドライドと唱えたのであります。」

 

横浜居留地での釜火入れの様子については、

 

「中国人カンプという総取締がおります。女工が小さな篭に5ポンドの茶を運んでくると、カンプの号令で釜の中に入れ、40分~1時間かき回して火を入れます。(炭火でかなり強火だったようです)それを取り出すときに着色料を入れるのであります。それから冷釜に入れて20~40分かき混ぜますと光沢がでます。」

 

と説明されています。

 

ところが、明治の横浜居留地に出入りしていたと思われる人が書いた別な記録②*2籠火入れ(バスケット・ファイヤード)と同じく、籠での仕上げ火入れをした茶で、最後に、釜火茶と同じように熱を掛けない鉄釜に着色料を入れて着色したお茶、と在ります。

 

サン・ドライド製は、「籠にておよそ45分ばかり焼き、全く手揉みをなし、しかして、火気のなき釜にて薬を加入し、釜茶のごとくかき回はす」

 

共通することは、釜火入れ(一番取引量が多い)でも、籠火入れ(釜火より高級品)でも、着色された茶が「サン・ドライド」と、呼ばれていたようです。

 

しかし、パン・ファイヤードは、フライパンのパン=鉄釜のことで、ファイヤードは、火入れの英語ですので、納得できます。

 

そして、バスケット・ファイヤードも、籠と火入れ、という英語から 意味が連想できますので、納得できます。

 

では、なぜ、「サン・ドライド」日+乾燥という英語の意味を連想させない茶の名前として用いられたのでしょうか?

 

これは、不思議です。

 

それとも、太陽の色として黄色がイメージされたのでしょうか?

『All About Tea』1935の著者W.H.ユーカースは大正13年に日本を訪問し、日本茶業者に資料を確認しながら書いていますので、信頼度が高い内容と思われます。

この本の17章「Tea Trade History of Japan」には以下の記述を見ると、サンドライドは「黄色がかっていたのかと推定できます。

 

この時代(1800年後半)、釜茶は籠茶同様、中国秘伝の方法で着色加工されており、無着色であるはずの「サン・ドライド」でさえ、もっともらしい色を付けるために、何らかの黄色の物質で処理されていた

 

 

ただ、ここで、もう一つ、明治21年静岡県茶業報告第三号」③*3を見てみると・・・

 

静岡県製茶会社が輸出したお茶、「無色燥」に「サン・ドライドと、振りカナが書いてあるのです!!

 

着色していない茶、ということでしょうから、これは注目です!!

 

県から出された公的な報告書と、茶商や現場で実際に作業されていた人が書いている言葉では異なることもあるでしょうが、もし、無着色の茶をサンドライと明治前半で公式に呼んでいたのであれば・・・

 

もしかすると、本当に「日干し製」(多田元吉の明治代の講演記録では、外国輸出用には日干し乾燥をしないようにと注意をしていることもあるので、国内に多くあったと考えられます)の茶が、まさに「サン・ドライド」と呼ばれていたのではないか

 

とも推測できます。

 

日干乾燥(自然乾燥)なら、鉄釜で炭火入れ乾燥されるときに着色されることもないでしょうから、最初はそのようなお茶に対しての名称だったが、その後、その雰囲気(外観)を持ったお茶を「サン・ドライド」と呼んでいたのであれば、英語のSun Driedという名前が付いたのは納得がいくのですが。

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(『蘭字 輸出茶ラベルの100年』第六回世界お茶まつり実行委員会事務局

協力 静岡茶共同研究会)

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吉野亜湖(茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師

 




 

*1:富士製茶株式会社 原崎源作『輸出再製茶 並ニ 其沿革』静岡県再製茶業組合,大正5 

*2:田中清左衛門『製茶緊要方法録』明治20では、

*3:『製茶貿易関係史料』横浜開港資料館所蔵(粟倉大輔『日本茶の近代史』,2017,p81

蘭字(輸出茶ラベル)から読む日本茶の輸出

「発見された蘭字から読み取る茶の輸出の変遷~富士製茶会社を中心に~」

 

菊川レンガ倉庫で2017/5/27に蘭字の講演会がございました。

 

輸出茶用のラベル「蘭字」と言えば、皆さんが今まで目にしていたものは、明治、大正、昭和初期、つまり戦前のラベルが中心だったと思います。しかし、今回、ご紹介するのは、戦後の蘭字になります。

 

 一昨年、戦後の蘭字資料が大量に、静岡のフェルケール博物館に寄贈されました。そしてその後すぐ、レンガ倉庫ゆかりの富士製茶株式会社の蘭字が200枚ほど、日本茶輸出組合から発見されたのです!こちらも戦後のもので、これにより、戦前の蘭字と戦後の蘭字を比べて見ることができるようになりました。

 

蘭字から、茶の種類や等級、輸出先が読み取れます。戦前のものには、釜で再火入れした「パン・ファイヤード」、籠で再火入れした「バスケット・ファイヤード」という名前の緑茶が主に見られます。

 

対して、今回発見された戦後の蘭字には、「チュンミー」「ソンミー」「ガンパウダー」と書かれたものが多いのです。当時、日本ではどのような輸出向けのお茶を作っていたのか、蘭字の文字から探りたいと思います。

 

戦前は主な輸出先である北米向けに英語で表記されていたのですが、戦後は、「茶」という文字も、英語の「ティー(Tea)」でなく、フランス語の「テ(Thé)」となっています。輸出先が、フランス領北アフリカ向けに変化していった日本茶の輸出の歴史を見ていただけるのではないでしょうか。

 

さらに、今回、蘭字とともに発見された富士製茶の関連資料があります。その中で注目したいのは、富士製茶 原崎源作氏の講演記録と生声のテープや日記です。氏の言葉がそのまま記録されおり、当時の茶業について語ってくれています。

 

また、昭和5年、昭和天皇の静岡への行幸の際、富士製茶をご臨幸された陛下に輸出用の茶について原崎氏が案内役を務められました。お二人の会話を記録した資料や写真が残っています。

 

今回は、新しく発見された蘭字と共に、これらの周辺の茶業史の資料を読み、蘭字の背景にある日本の輸出茶業史を見て行けたらと思います。

 

講演会当日使用しました講演資料をアップしましたので、ご興味ある方は、タイトル画像をクリックいただだくと、PDFをご覧いただけます。




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追加で、もう少し詳しく新発見の戦後の蘭字について読みたい、という方は、以下のPD Fもあわせてご覧ください。

~戦後の展開について、新発見の資料から~ 

 *上記PDFの一部訂正を申し上げます。 p71 図26 赤字の部分を訂正

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お手数ですが、ダウンロードいただきましたら、訂正をお願い申し上げます。

 

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吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師

 

 

 

 

 

 

台湾の輸出茶ラベル(蘭字)調査のご報告

台湾に残された輸出茶ラベル「蘭字」を調査に行ってきました。

月刊『茶』に寄稿させていただきましたので、ブログにもご紹介しておきます。

 

原稿にも書きましたが、台湾の茶博物館では、動画投影による効果的な展示が多く、製茶機械なども動いているところが映像で見ることが出来るため、茶業史を興味深く見ることが出来ます。

今回は、蘭字を中心に原稿をまとめましたが、日本統治時代の茶業史の他の展示も、見るもの多く、追加調査を予定しております。

 


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吉野亜湖 (茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師

日本の「みどり茶」~明治時代、アメリカ人はミルクや砂糖を入れて飲んでいた?

明治時代、主にアメリカに輸出されていた「緑茶(みどりちゃ)」

そして「紅茶(べにちゃ)」と、

ロシア向けの「磚茶(かわらちゃ)」について、

 

保田安政という方が書いた、読みやすい商学のテキスト『商人百夜草 : 家庭教育. 下』このように記されています。(明治25年)

 

「日本の輸出品の内で一番金目のものは先(ま)づ生糸でございますが、 茶も又名高い物でございますから、ついでながら申し上げませう。」

 

「今では製茶輸出は大層衰へまして、わづかにアメリカへ向けるばかりで、このアメリカへ向く品は緑茶(みどりちゃ)と申して、通常の茶でございます。」

 

 

すでに25年には、日本茶の輸出に陰りが見えてきたことが書かれていますね。

 

輸出用のお茶について、「再製」という言葉が出てきますので、もう少し読んでみましょう。

 

「輸出するときには、再製と申すことをいたします。是はスッカリ出来上がった茶を更に大きな鉄鍋へ入れてよく乾かしますのですが、ただ乾かすばかりでなく、諸国の茶を色々と調合致し、之へ薬を以て色付けするのでございます」

 

籠製釜製と二通りございます」

 

 

蘭字(輸出茶用の商標ラベル)に出てくる「バスケットファイヤード」と「パンファイヤード」のことです。着色については、別段でブログに書いてますので、ご参照ください。

 

「アメリカでは之ヘ砂糖や牛乳を混ぜて飲むのでございます。」

 

 

当時のアメリカでは、日本の緑茶に砂糖やミルク、レモンなどを入れて飲んでいたので、できるだけストレートで飲ませたいと、日本茶業界側は、当時、海外の万博に出展しては、本来の飲み方を伝えていたようですが、

 

明治のアメリカ向け日本茶パンフレットでは、ミルクと砂糖を入れることを自らすすめすることもしていました。(参照『海を渡った日本茶の広告』静岡茶共同研究会編)

最近のニューヨークなど日本茶を出すカフェでは、玉露にも砂糖とミルクやハニーが付いてきますし、抹茶ラテ、ほうじ茶ラテは日本でも親しまれていますので、最近の方は抵抗ないかもしれませんね。

 

ここでは、「緑茶」「紅茶」に、「みどりちゃ」「べにちゃ」と振りかなが示されており、読み方が現代と異なるのも面白いです。

 

「近来はロシアへも少々向きますが、これは磚茶(かわらちゃ)が、おもでございます。」

 

「又紅茶(べにちゃ)と申すものがございまして、これはご承知の通り、紅(あか)ひような、黒ひような色の茶でございます。」「しかし是はマダ少ふございます。」 

 

個人的には、輸出用の茶箱の概要についても触れているのが興味あります。国会図書館デジタルコレクションで全文読めますので、ご興味のある方は、リンク先を開いてみてください。

国立国会図書館デジタルコレクション - 商人百夜草 : 家庭教育. 下

 

それでは、〆の一文を引用して終わります。

「まづ今晩はこの辺でご免こうむります」

 

 

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松下智コレクションより「かわらちゃ」
(世界お茶まつり2016年展示品)

 

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吉野亜湖(茶道家日本茶文化史研究者)

静岡産業大学非常勤講師(「日本茶文化史」「日本茶概論」「伝統文化演習」担当)

日本の紅茶製造のはじまり ~静岡では中国式が採用された

明治初期、日本が紅茶の製造を始めたとき、政府は「中国式」を最初に採用し、すぐに「インド式」に変えました。

この中国式とインド式というのは「どう違うのでしょうか?」という疑問が残ります。


資料からわかる範囲では、

 

中国式は、明治7年に政府が発行した『紅茶製法書』*1から要約してみると、以下の製法になります。

1. 生葉をムシロの上に広げ、一時間ほど太陽にさらし、時々上下を入れ替える
2. ムシロの上で、手で押し揉む
3. 大型の茶箱に山盛りに入れ、蓋をして、蓋の上に重石を置き、太陽光の下で一時間干す。
4. 翌朝、蓋を取ると、固まった茶が紅色を帯びる。それを取り出して、焙炉の上で塊をほどきながら、細くなるまで揉む。細かい葉は取り除く。(ここは宇治製煎茶法と同じ)

最後に、三ミリくらいの穴の篩で細かい葉はふるって落とし、葉を茶箱に保管する。


そして、インド式は、インドで製法を学び、国内の伝習所で指導者をしていた多田元吉(明治8年、紅茶製法を調査すべく中国・インドに派遣された)の『紅茶製法纂要』(明治11年)から、「新法」を読み解いてみます。

 

1. 萎凋
2. 捻揉
3. 奄蒸:広げてしばらく置く。(箱などに堆積させて湿った布をかけたり、機械を用いる人も居る)

*発酵過程:元吉は、ここを長くしすぎるのがわが国の紅茶、つまり中国式だと述べ、インド式は過度にしないようにと注意しています。
4. 日光があれば先に日干乾燥させてから、焙炉乾燥。

 


この2つの書から読み解ける範囲では、捻揉と奄蒸(発酵過程)を「適度」にするのがインド式ということのようです。(あくまでのこの二つの書籍の比較からということだけですが)

そして『茶業五十年』静岡県茶業組合総合会議所(昭和十年)には、「明治四十四年にいたり三重の人伊達民太郎*2氏苦心研究、従来の支那式日干製より、断然インド式屋内萎凋製に転向し」p88と、ここにははっきり二つを並べて書いてありますので、

 

この本からは、当時”採用”した(または認識していた)、いわゆる中国式」と呼んでいたのは日干萎凋、「インド式」は屋内萎凋であった、と読めます。

 

以上は、上記の資料で探れる範囲での話です。製造のご専門の方にもご意見を聞きながら謎解きができたらと思います。



そのころ静岡では?

全国的には、インド式が伝習されていくのですが、静岡ではしばらく中国式が民間の伝習所で採用されていたそうです。(というのは、元吉の指導ではなく、中国人の指導者が入っていたという意味)

 

静岡の尾崎伊兵衛らが中心となって、有渡郡小鹿村に紅茶伝習所を開き、教師に清国人の胡秉枢を招きました。

 

これが静岡県初の紅茶伝習です。 

伝習生二〇名だったと静岡銀行史』にあるそうです。(資料未確認、引用のみ)

 

その静岡初の紅茶の先生が書いた書籍「茶務僉載(ちゃむせんさい)」

 

胡秉枢は、上海で日本領事に「日本の山茶で紅茶を作るとよい」と提案するのですが、すでにこの時期、日本では中国製法(以前招いた中国人指導者による製法がうまくいかなかったため)ではなくインド製法に切り替えていた時だったので、日本政府としては胡秉枢を雇わなかったのですが、民間で雇いたいという方が現れ、静岡に派遣されたという経緯です。


                               

吉野亜湖(茶道家・茶文化研究者)
静岡産業大学 非常勤講師
担当授業 日本茶文化史、日本茶概論、伝統文化演習

*1:『紅茶製法書』:『紅茶百年史』 (1977年)に掲載されています。

*2:大正4年 茶業中央会議所が設立した静岡市の紅茶研究所の主任となる