市中の山居
ウェブを検索すると、「市中の山居」とは利休が求めたところ~という内容の記述が多く、さらに出典も出てこないため、守屋毅『喫茶の文明史』から自身のメモとして以下にまとめておきます。
山居の躰・市中の陰
公家の鷲尾隆康が、宗珠(珠光の養子)の茶亭に訪れた時の印象を、このように書き残しています。
「山居の躰(てい)、尤も感有り。誠に市中の陰と謂うべし。」(『二水記』1532年5月)
この茶屋は、当時の常識としては非常に狭い「四畳半」「六畳」の小さな座敷で(『宗長日記』1527)、下京四条の北にあり「午松庵」と呼ばれていたそうです。(『茶祖四祖伝書』)
庭には松や杉があり、紅葉も印象的だったようで、市中にありながら山里の草庵を思わせる風情であったと言われます。
連歌師の宗長もこの庵に共感し発句し、さらに歌人 富原統秋の「山里庵」によせて、
山にても憂からむときの陰家や 都のうちの松の下庵
と、詠んでいます。
紹鴎(利休の師)が師事した三条西実隆の書斎「角屋」も、都の片隅に山居の静寂を再現する意識が感じられるものであったそうです。(『実隆日記』1502年の6月)
利休が生まれるのは1522年ですから、彼の前時代の文化人たちが、充実した都市生活の中で、隠逸の境地を享受する場を作っていたのがわかります。
~ただ、この時代くらいまでは、都会の喧騒や日常から「逃れる」という意識をもった閑居というように、私は感じてしまうので、「利休が求めた」といわれると、違和感を感じてしまいます。利休の出身である堺の話題になりますと、少し通じるものがでてくるのかなと思える記述があります。~
この宗珠の茶室が話題になっていたころ、紹鴎は京都での遊学を終え、故郷の堺へ戻ってきました。(ルイス・フロイス『日本史』)
当時の堺の茶屋の様子が通詞ロドリゲスによって記録されています。(『日本教会史』)
「現在流行している数寄と呼ばれる茶の湯の新しい様式について」、「堺の小家に、人々は互いに茶を招待し合い、街の周囲に爽涼・閑居の場所のないことの補いとした」。
「町の中にそれを発見し、楽しむことを、日本語で『市中の山居』という」
それは、「辻広場に孤独の閑寂を見出す意味」があり、「むしろある流儀では、この様式が純粋な閑居にまさるもの」と評価されていた。
~これを読むと、茶室の佇まいについて言うだけでなく、現実社会を生きながら、どこにあろうと自身の向かい方で隠逸者の求めた精神性さえ実現しうるという茶道の意識も見られます。そういう意味では、利休が求めたというのか、茶道の意識を利休に代表させているのであれば、茶道が意識しているところを表す言葉だとも感じられます。
追記として、イエズス会によって、1603年~1604年にかけて長崎で発行されたポルトガル語の日本語解説辞典『日葡辞書』では、「街辻のなかや、市や衆人のなかにあって、遁世者となっていること」と解説されているそうです。
「市中の山居」誰が言い始めたのか?
利休ではないと思われます。また、利休より以前に文化人たちに「市中の山居」の意識はすでにあったということですね。
以上、たまたま手に取った守屋毅『喫茶の文明史』淡交社,平成4からのメモで、引用文は原典にあたってませんので、ご興味のある方は原本をご確認下さい。
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吉野亜湖(茶道家・茶文化研究者)
静岡大学非常勤講師