喫茶去 ー「東山茶」英文パンフレットより抜粋

喫茶去

唐代Tang dynastyに名を馳せた禅僧、趙州(778年 - 897年)は、教えを求め訪ねてきた者に必ず「喫茶去」(まあ、茶を飲もう)と答えていました。不思議に思った院主が、「禅師はなぜ誰が何を言おうと、『茶を飲め』と言われるのですか?」と聞いたところ、趙州は「まあ、茶を飲め」と一言。

 

一杯の茶を共にすることで、互いの心を開放し話すことができます。さらに、坐(ざ)して茶を一服する内に、自分の心が透き通った青空のように晴れていくのを感じ、他に向けて質問したことの答えを、自身の内側から導き出せることもあります。

 

茶にはそのような力があることに気が付き、この考えを集約し発展させたのが、日本の精神修養法である「茶道」だと思います。

 

喫茶の行為を通し「人として日々いかに生きるか」ということを考え、実践していく「生の芸術 Art of Life」とも称されます。慌ただしい日常の中で茶を一服するだけでほっと一息つけ自己を見つめなおす時間が取れるーーなど、茶とは「人間性を確認する一杯である(a cup of humanity)*」という哲理を、皆様も茶席でなくてもあちこちで実感されたことがあるのではないでしょうか。

 

                                                                          *Okakura Kakuzo "The Book of Tea"

 

お茶がないとはじまらない

「日本では、お茶がないと何事も始まらない」

 

1900年初頭に日本を訪れたアメリカ人ジャーナリストW.H.Ukersが、このように書いています。(”A LITTLE JOURNY TO JAPAN” 1925年)

 

一般の家を訪問しても、役場や会社に出向いた際でも、まずは「お茶をどうぞ」ともてなされ、それからでないと仕事も話も進まないことに驚いたようです。日本では、人とのコミュニケーションは、公の場であろうと私的な場であろうと、「全てが茶碗の上で取り交わされている―茶の国」だと、彼の著作で世界に伝えました。

 

急ぎの用で出向いたとき、要件だけ済ませて客が失礼しようとすると、「お茶も出さずに申しわけない」と家主に謝られるほど、私たちの暮らしの中に喫茶の文化がずっと息づいていました。

 

日本のお茶の歴史は古く、史料で確認できるものでも9世紀頭頃からです。この頃のお茶は現在と異なり、飲み方も茶を釜などで煮だして飲んでいたことも知られています。もちろん、現代でも茶葉を煮だして飲む地域もあります。

 

やがて17世紀になると、一般の人たちに広く喫茶の文化が定着してきました。街道のあちこちにお茶を出す茶屋が立ち並び、旅する人たちの渇きや疲れを癒す場もありました。茶屋の看板娘たちは浮世絵にも描かれ、彼女たちに逢うために茶を飲みに行く人たちもあったり、現在の動物園のように鳥などの小動物が展示されていたり、アートギャラリーのように芸術を鑑賞しながらお茶を飲む茶屋もあり、人々の娯楽の場にも茶は欠かせないものとなっていました。日本が近代、アメリカで開催された万国博覧会(1894 Midwinter Fair)では、日本の花や鳥を展示して美女が茶を運ぶ茶屋を再現して日本茶のPRをしたこともあります。

 

17世紀初頭から18世紀後期まで日本は外国との交流を制限していたため、1853年、アメリカから艦隊を率いたペリー提督が、開国の交渉に現れます。中央政府のある東京(当時は江戸)に向かう前、最初に寄港したのが沖縄(当時は琉球)でした。先ず、士官と通訳二人を上陸させたところ、日本の役人が現れ、お茶でもてなされたそうです。その後、ペリー提督自身も上陸し、琉球の宮中で接待を受けます。その内容とは、「薄いお茶一杯と煙草、それに非常に固いひねった菓子が卓上に並べられた。後にも先にも待遇はこれきり。*」と記録されていますから、海外から外交のために訪れた客、ペリー提督が日本で初めてもてなしを受けたものは、やはり、お茶だったようです。

 

*『ペルリ提督日本遠征記』“Narrative of the Expedition of An American Squadron to the China and Japan etc.”1856年

 

日本茶は世界の至宝 

JAPAN TEA IS A WORLD TREASURE

ペリー提督の来航から二年後の1858年、日米修好通商条約が締結を機に、日本と西欧諸国との交易が開かれ、日本茶の海外輸出が本格的に始まります。日本茶は美しい浮世絵のラベルを貼られ、輸出されていました。

 

日本茶業界は、『日本茶は世界の至宝』というリーフレットを作成し、世界に日本茶の徳を説きました。

 

――日本という小さなアジアの島国の気候の元で育つ奇跡の植物は、人々の心と体を癒し、人々の知力や創造力を高め、人と人を結ぶ役割も果たす。その製造方法は、自然を尊び、緻密さを追求する、誠実な日本人気質が作り上げた独自の文化の集約でもある。

茶は日本で「道」と昇華し、喫茶の文化は日本で千年以上に渡り連綿と受け継がれてきた。この茶が世界の人々の宝物であるというのは、決して大げさではない――

 

そう当時のtea men が考えたのです。そして、表紙も浮世絵を用いるなど、日本文化と一緒に紹介しました。アメリカには日本茶PR用の喫茶店もいくつか造られ、海外の人々にも日本茶が愛飲されてきました。

深蒸し茶の誕生

1960年代から、海外向けの比重よりも日本国内の需要が増え、日本茶の新しい文化が生まれます。それまで「在来種」と呼ばれる種で植えられた茶樹から、挿し木等で増やす「品種」の茶が主流になっていきます。このように新しく植られたばかりの勢いある茶樹から摘まれた新芽を、従来よりも時間を掛けて蒸す茶が開発されます。これが、最初は「フリースタイル」と呼ばれた「深蒸し茶Fukamushi-cha」です。

 

そして、この頃、日本の家庭に急須が普及し始めます。それまでは急須は茶席や特別なお客様用の高級茶を淹れるのに用いられ、家庭内では薬缶や土瓶などで番茶を飲むのが一般的でした。これは日本茶の製法・品質が向上してきた、ということも意味していると思います。

 

そして21世紀、品種のお茶、急須の文化も成熟し、日本茶の飲み方も様々に豊かに楽しめるような世界が整ってきました。千年以上、先人から受け継いできた日本茶の歴史を経て、今まさに「日本茶は世界の至宝」と呼ぶに相応しい条件が整ったとも言えると思います。

 

現代も日本は「若者が最もお茶を飲む国」と海外の方から言われますが、日本では駅でもコンビニでも、学内でもどこでも、確かに誰もが簡単に茶をいつでも手に入れられる環境にあります。

 

時代ごとに喫茶スタイルを変えながらも、日本茶は常に人々の最高のパートナーとして存在しています。

  

茶に謝して生きる

東山にいらしたら、ぜひ「謝茶」の碑をご覧ください。この石碑には、茶に感謝して生きるという文字が、刻まれています。茶道家も茶を飲むとき、茶を「押しいただく」ということをします。茶の入った碗を両手で抱えて高く上げ、自身の頭を深く下げます。

日本の自然の代表ともいえる茶、先人から受け継いできた茶の文化、長年かけて磨かれてきた茶の製造技術などがあってこそ、この一杯の茶であることに思いを馳せ、この茶を通し万物に感謝し、茶を飲み干すことでその万物の恵みを身体に取り込み自身と一体化させるのです。

 

茶産地の産業、環境、人々の暮らしを支えてきた茶、「謝茶」の精神も、ぜひお伝えしたい日本茶の文化の一つです。

(東山茶の英文パンフレット 日本語原稿より一部抜粋)

 

吉野亜湖 茶道家 日本茶文化研究者

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東山茶 茶草場農法 英文パンフレット全文PDFはこちらから