明治28年(1895)全米の新聞に、
日本人「KUMPEI Mtumoto(松本君平)」の名前が
何度か繰り返し掲載されました。
全米で有名な『リッピンコット』誌に、
松本君平が「日本の茶道」についてエッセイを書いたからです。
『リッピンコット』は、当時世界で最も大きな出版社の一つとして知られていたリッピンコット社の月刊誌で、新聞に広告を繰り返し掲載していました。
静岡出身の君平は、アメリカでペンシルバニア大学、ブラウン大学大学院に留学し、『ニューヨーク・トリビューン』の新聞記者になります。(明治29年、日本に帰国してからは、政治の世界で活躍します。)
明治28年と言えば、岡倉天心が『茶の本』出版する前です。
岡倉天心より先に、英語で茶道について書いていた日本人がいるということに驚きました。
松本君平
なんと、10歳にして、二宮尊徳の弟子である岡田湛山の私塾で学び、英語も日本ですでに学んでいたようです。
18歳の時にローマの英雄ジュリアス・シーザーを慕い『英雄経』(明治24年)を著しています。*アメリカに留学する前のお話です。
(ちなみに、彼はアメリカでの執筆活動で「ジュリアス・クンペイ・マツモト」のペンネームを用いていました^^)
君平はどのようにアメリカ人に茶道を紹介したのでしょうか?
アメリカの大学院で経済学を学び、アメリカの新聞記者であった君平は、まず次のように書き始めています。(要約)
日本の貿易そして、国富を支えてる二大品目は、絹と茶である。
それは全米の茶の消費量の50%に相当する。
それから、日本茶の歴史について語ります。
そこで、私が注目したのは以下です。
伝説的起源としては、16世紀に、禅の開祖である達磨禅師が面壁九年の修行中に、眠りに落ちたことを猛省し、まぶたを切り取って地に投げたところ、木が生えてきて、それが今では「茶」と呼ばれているという。僧侶の間で眠気を覚ます薬として用いられてきたことが関係しているのかもしれない。
達磨のまぶたの伝説を書いているところです。
これは、ケンペルの『日本誌』にありますが、日本では他に聞いたことがありませんでした。
(ご興味ある方は以下の水城氏らの調査に詳しいです。)
ケンペル『日本誌』にある「茶」の伝説 ― 達磨と茶の関わり―
茶の歴史について、君平は何を参考にしたのだろうか?
ここで、また興味を持ちました。
そして、茶道についても面白い分析をしていたのです。
茶道の歴史を3つの段階に分けているのですが、
これは彼の独自の見解か?面白い!と訳しながらワクワクしました。
しかし、茶道についてもどこからこのようなまとまった知識を得たのだろうか?
疑問に思いました。
そして、同時代か少し前の英文で書かれた茶道についての記述を探してみると・・・
ビンゴ!!
チュンバレンの『日本事物誌(Things Japanese)』
「Tea ceremony」の引用だったと分かりました。
面白い!オリジナルではなかったが、逆に、英文で書かれた日本についての書籍を松本君平は読んでいたということがわかりました。
この両者の比較については、それぞれを対比させながら、別稿で述べてみたいと思います。
(なぜって?
・・・それは、、、面白いからです^^)
オリジナルでないにせよ、彼が天心より先に茶道について英文で広く世界に紹介していたというのは変わりません。
KUMPEI Mtumoto ”The Tea Ceremony of Japan”
英文の書籍では『The war in the East. Japan, China, and Corea. A complete history of the war 』(1895年刊)「ジュリアス・クンペイ・マツモト(Julius Kumpei Matumoto)」の名前で、筆者として参加しているのも面白いですね。
また、この翌年に、君平は『海外製茶貿易意見』経済雑誌社(1896年)を出版しています。そちらのお話はまた。
(『報徳』令和三年八月号に桑原秀樹氏の「松本君平と明治20年代の製茶貿易」を読ませていただいた感想と共に)
素顔の君平は、「キミヒラ」と名乗って、
「ハイカラ」さんで、「キザ」だったようです。
なかなかのエピソードが本や新聞の中で読み取れます。
(以下は『明治百傑伝』の松本君平)
私の興味は、彼は果たして茶道を嗜んでいたのか、書いてあるかなのですが。ご興味ある方は国立国会図書館で全文読めます。
*略歴参考:松本君平『徳教とは? : 現代人の新しき宗教』 (昭和10)
吉野亜湖
静岡大学非常勤講師
静岡県立大学 社会人フェロー