手揉み茶と機械製茶~茶で「国を医する」

高林謙三のお話

明治後期から大正期には、手揉み茶から一部機械化

さらに全体が機械化されていく過程にありました。

1897(明治30)年、

高林謙三(当時66歳)粗揉機を発明します。

東京の茶試験場で、秋葉をもって日本一の手揉み名人大石音蔵氏(試験場教師、静岡県阿部郡久能村出身)と、この製茶機の公開比較試験を行いました。

いわゆる「手揉み」対「機械」の競争と注目が集まりました。

生葉を蒸し機にかけ、蒸し葉一貫三百匁をそれぞれ揉んだ。

機械は三十分で中揉まで完成。
手揉みは葉打ちも半ばというところだった。

しかし、時間はかかっても品質は手揉みの方が上だと
大石氏は高をくくっていたが、結果は品質的にも機械が勝った。


初日は「高林本人が機械を回したので、上出来なのだ!」

と大石氏は再試験を申し出ます。

そこで、二日目、弟子の遠藤定吉が回した。
これも早さも品質も大石氏の完敗。

うーん、それなら見物人でも試験しよう!と言うことになり、

 

三日目は、午前と午後に分かれて見学の一般人から回す人を選びました。

・・・結果は、、、やはり機械が勝った。

 

 

納得できなかった大石氏は、その次の日も次の日もと、

自分が勝つまで続ける気でした。

しかし、大石氏は一回も機械に勝てることなく、

ついに五日目、

「先生おめでとうございます、おめでとうございます」

と、高林氏に、疲れ切った形相で伝えたという。

その三日後に大石氏は高林氏を訪ね、

 

「あの機械を自分に譲ってくれ」と頼みに行ったそうです。

 

この高林式粗揉機は、静岡(静岡の松下工場が高林氏を静岡に迎え入れた)から販売が始まります。

現在の粗揉機も、この高林式を応用したものです。

(追記)

明治に日本の特許制度が始まり、
その取得2号、3号、4号が製茶機でした。

いかに当時はお茶が国内で重要だったかもわかりますね。
 
その特許を取得したのは高林謙三氏。
 
機械の発明をしようと決意したのは、なんと四十七歳から。(それまでは医者で「個人を医していたが、これからは国を医するのだ!」と茶の世界へ)
 
2号の「生茶葉蒸器械」(写真参照)は、「え?これが製茶機?」というような羽釜と底に穴が開いた引き出しが付いた木箱です!
 
3号は焙じ茶を作る機械(焙茶器械)。丸い缶に茶葉を入れ、囲炉裏で焙じて実験したところ、葉が焦げてしまい、これは煙が缶の外に出ないからだと、缶に穴を開けて送風することから発想が始まったそうです。
 
それから順調に発明を進めていったのかと思いきや、一連の製茶をこなせる機械が完成し、高林自らがハンドルを回してデモをしたところ美味しいお茶となり、多くの工場で買い入れてくれたのですが、石炭の加減や初めて見たハンドルの加減がわからずグルグル回して壊したり、「デモの時と違う機械だ、詐欺だ」と、家の前に次々と機械を叩きつけられ大騒動となったそうです。

それからの生活は厳しく、家も火事にあうなど、身の周りの物を質に入れては一日のお米を得ていたぎりぎりの発明生活。

そして、この機械の販売権をいち早く勝ち取ったのが静岡の松下工場さん。狭山の高林氏を掛川に招き、ここで機械製作を行う工場を造りました。しかし、その直後に彼が倒れ、療養しやすい家と工場をと、菊川に移動したとのこと。

~FBに書いたものですが、ブログで読めますか?という質問をいただいたので、ここに書き添えます。

参考『みどりのしずくを求めて』青木雅子

『高林謙三翁の生涯』森園市二

そして、松下工場での聞き取り調査より。

 


日本茶 #茶業史 #高林健

吉野亜湖(茶道家・茶文化研究者)

静岡大学非常勤講師

ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員