ヨンコン茶?グリ茶?玉緑茶?ー昭和の日本茶

ヨンコン茶」は、「グリ茶」または「玉緑茶」とも呼ばれます。

 

昭和初期、中国の勾玉状の釜炒り製緑茶を模して、蒸し製で製造の工夫がされました。

 

昭和初期

 

大正末に日ソ国交が復興し、「ソ連(南露)」に玉緑茶、北部アフリカと西アジアに玉緑茶と紅茶という新たな仕向け地が開拓され、1939(昭和14)年(約24,900トン)を頂点として、毎年2万トンほどの「黄金時代」を迎えました。(『日本茶業史 第三篇』p.99-100)

 

西比利亜(シベリア)鉄道と満州国

 

日本茶業史 第三篇』(p137)によると、1935(昭和10)年、シベリア鉄道の一部が満州国に譲渡され、譲渡金の3分の2は日本産物で約三年間かけて納められることになった。日本茶はその主要部分(約1割)として、振り分けられたことも、輸出が拡張した一因となったと分析されています。

 

名称の由来

 

「世界お茶まつり2022」展示パネルで加納昌彦氏が紹介されていた昭和六年の『茶業試験場彙報 第4号 輸出向特種製茶法』に、

 

ヨンコン茶とは?

グリ茶とは?

 

両者の名称の由来についての章があります。

全国農業会茶業部編『日本茶業史 第3篇』全国農業会1948年(国立国会図書館デジタル)

茶産地の方は、形状が勾玉状でグリグリしているので「グリ茶」となったと言われたり、煎茶(荒茶)の製造工程の一つである精揉工程がないから「ヨンコン」(5過程中4で乾燥になる:①蒸熱②粗揉③揉捻④中揉→再乾・乾燥)という話も聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

この本によると、「定説」はないが、と前置きし、以下のように説明しています。(p5)

 

ヨンコン茶:試験場の留学生であった「呉覚農」(現代中国茶業の基礎を築いた偉大な人物として知られる。著書多数。)によると、浙江付近の茶に似ており、これが上海北方の甬江(ヨンコウ)で集散されていたため、「ヨンコウ」から「ヨンコン」茶となった。

 

グリ茶:堀有三によると、「Green」の転訛(なまり)から「グリ」茶となった。

 

堀有三は、ウィリアム・ユーカースが『ALL ABOUT TEA』(1935年)を書く際に日本茶業史の知識を提供した人としても知られていますが、静岡県掛川出身で横浜に出て明治期から輸出茶業につき、茶業中央会の翻訳嘱託であったことは確認できています。(茶業組合中央会議所編『茶業彙報 第15輯 製茶の消費増進と化学的研究』茶業組合中央会議所、大正9-15、p26) また、三井製茶部にもいたようです。(『茶業界』静岡県茶業組合連合会議所1939年7月号

 

深蒸し茶のルーツ』(2013年)にも掲載しましたが、柴田雄七氏(2002年)が六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)の「四番目の舌根」から転じて「ヨンコン」となったということを書いています。(「深蒸し茶誕生物語」『緑茶通信4』世界緑茶協会p31-32)

 

これらは、坂本孝義氏の「玉緑茶の歴史的形成過程」(2017年)にも紹介されています。(『茶業研究報告』熊本県産業技術センター 123:p21〜26)

 

ここで興味深いのは、中国のように釜炒り製のグリ茶ではなく、なぜあえて蒸し製にしたのか、という疑問に対して、近代の輸出茶の不正・粗製茶問題にあることを坂本氏が指摘している事です。当時の輸出茶業の中心地であった静岡県は、明治26年には「釜炒り茶」を粗製茶として製造を禁止しています。

 

(なぜ、面白いかと言うと、同様に明治期の着色茶を一概に不正・粗製茶と分類することに疑問があるからです。これについては別途お書きします。)

 

また、蒸し製緑茶である煎茶が輸出茶の主力を占めていたため、この時、茶工場にある製茶機械を活かした形で製造できる形を目指したのだろうと考えられます。

 

玉緑茶

 

玉緑茶」という名称は、この時期に国内向けにも売り出そうと、茶業組合中央會議所が1932(昭和7)年に公募したものです。佳作には「日の丸茶」「富士山茶」「勾玉茶」などが見えます。「深蒸し茶」の名称選択の時もそうですが、様々な候補からこの名が選ばれたのか思うと、日本茶の歴史を知る楽しさを改めて味わっていただけるのではないでしょうか。

 

海外向けには、中国茶の名称に基づき、篩分けしたサイズ別に「ハイソン」「チュンミー」「ソーミー」と呼ばれましたが、国内向けの「玉緑茶」には、大型を「」、中型を「」、小型を「小桜」と命名するなど、とても洒落ていました。

 

そして、日本茶業史 続篇』には、こんな言葉で玉緑茶にエールを送っています。

 

「玉緑茶よ、永遠に我が茶業界にさきさくあれ」

 

日本茶業史 続篇』が刊行されたのは、昭和11年です。

昭和初期の玉緑茶への期待が読めますね。

日本茶業史 続篇』p235-236



前述の『茶業試験場彙報 第4号 輸出向特種製茶法』には、外観を重んじるアメリカや日本に対し、ロシアは「実質」、香味を見るとあり、玉緑茶は茶の本質を伝えられる茶の象徴としてもあったようです。(p6)

 

そして、ロシア、モンゴル向けに「ワイザン茶」というのもありました。

ワイザン茶については別途ご紹介します。

 

 

 

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吉野亜湖
静岡大学非常勤講師・ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員

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全国農業会茶業部編『日本茶業史 第3篇』全国農業会1948年

 

静岡県茶業組合聯合会議所編『静岡県茶業史 続篇』静岡県茶業組合聯合会議所、昭12年