お茶の時間に最適なのは何時?答えは・・・(1)
お茶の時間「ティータイム」はいつ?
答えは、“All Time”
『ALL ABOUT TEA』の著者ウイリアム・H. ユーカースが主筆をつとめた業界誌『ティー&コーヒー トレード・ジャーナル』に、
小売店のための広告案という記事がありました。
「ティータイムに最適なのはいつ?」
という1919年の記事です。
とても楽しいので、記事を日本茶大好きな筆者が、思うがままに訳してみます。
7時のお茶は、
気力と満腹感を加え
風味と香味を与え
どんなお料理にも
ぴったりな彩りを添える
それなのに
精巧にも、シンプルにもなります。
(販売者名入れる)
ティータイム・イズ・オールタイム
8時のお茶は
朝食を
心地よく、楽しくする!
一日の始まりを
充実させ、幸せにする!
毎朝、美味しくいれてだすと
そうなります。
(販売者名)
ティータイム・イズ・オールタイム
9時のお茶
朝食を贅沢に、
そして決して飽くことない
いつもの美味しさは
一日のはじまりを整えてくれます。
(販売者名)
ティータイム・イズ・オールタイム
10時のお茶
午前なら良い目覚めのため
午後なら良い眠りのため
午前でも午後でも
心を落ち着かせたり
リフレッシュしたり
いつでも美味しく
いつでも心身に良い!
(販売者名)
ティータイム・イズ・オールタイム
11時以降は続き(2)にて
原文もつけましたので、皆さんもよりよい訳を楽しんで下さい。
ここからアイデアをもらって、茶文化を盛り上げてほしいというのもユーカースの願いと思いますので、引用も自由と思います。(出典を紹介いただけると、とてもうれしいです。)
出典
WALTER CHESTER “TEA ADS FOR THE RETAILER”
The tea & coffee trade journal,
New York: Tea and Coffee Trade Journal Co.,
July 1919, v.37,34-35
吉野亜湖
静岡大学非常勤講師
ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員
ティーバッグの歴史(1)『ALL ABOUT TEA』と
ティーバッグはいつから?
そして日本茶のティーバッグは初期のころからあったのか?
ユーカースの『ALL ABOUT TEA』(1935年)を中心に調べてみたいと思います。
wikipedia(2023.11.23閲覧)には、
ティーバッグは1908年にコーヒー貿易商であるトーマス・サリヴァンによって偶然に発明されたというのが定説となっている。 商品サンプルの紅茶の葉を絹(木綿とも)の袋に詰めて小売業者に送ったところ、そういう商品だと勘違いされて、その袋のままお湯につけて紅茶を煮出してしまったのである。 それがティーバッグの始まり。
とあります。
茶商が意識し始めたのはこのころかもしれません。
*ただ、このエピソードは『ALL ABOUT TEA』には書いてないので、もう少し調べてみましょう。
特許としては、1901年に「茶葉ホルダー(TEA LEAF HOLDER)」として、アメリカで特許申請されていることは有名です。(下図)
しかし、アイデアだけで、実際に流通していたか、一般に普及していたか、というのはわかりません。
*アイデアだけでしたら、江戸時代いやそれ以前から、日本では「茶袋」(『ALL ABOUT TEA』のDICTIONARYには「tea bag」と英訳されています。)がありましたよね。茶袋に茶葉をつめ、茶釜で煮出していましたので。
では、「ティーバッグ」自体が一般に認識されはじめたのは、いつ頃頃からなのでしょうか? 北米の新聞を調べてみました。
すると、1901年には、ティーバッグの淹れ方が説明されていたり、若いお嬢さんに最適というような記事が出てきました。「お茶の淹れ方」という特集の記事で、広告ではありません。
現代の感覚では、ティーバッグというと安価なものというイメージがあったのですが、コットンガーゼの袋に1カップずつ茶葉が詰められていることを考えると、コストも増えるし、手間も入るので、決して当初は安いものではなかたのでは?と疑問がわいてきます。
また、新聞はニューヨークやサンフランシスコ、カナダのモントリオールなど都会の新聞に見られました。ドレスアップした若い女性がモデルなので、先端の淹れ方だったのかなとも推測できます。
次回は、価格についても新聞記事や広告から追っていきたいと思います。
また、『ALL ABOUT TEA』は1935年の刊行ですから、1930年前後のティーバッグ事情に詳しいので、それについても次の稿でお書きします。
(実は、「tea bag」や「tea bag maker」の広告や記事は1900年以前にもあるのですが、もしかするとこれは単に「茶袋」パッケージの可能性もあるので、確実に私がティーバッグと確認できた記事からご紹介しています。→今後の更なる調査必要です。)
(つづく)
吉野亜湖
静岡大学非常勤講師
ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員
世界初のお茶の真空パックに日本茶!『ALL ABOUT TEA』から
講演会などではすでにお話していますが、『ALL ABOUT TEA』に掲載されている「初の茶の真空パック 1900年」は、日本茶!だったのです。(下図)
日本では「ヒルスコーヒー」(サンフランシスコ本社)で知られる「ヒルスブラザーズ」の「O-YAMA(大山)」というJAPAN TEAの真空パックの写真です。
これを見た時は、大変うれしくなりました。
(おお、日本茶だ!と)
米国内務省局の報告書に、「ヒルスブラザーズ(1878創設)が最初に真空パックのコーヒーを市場に出した」とあります。
Hills Bros., established in San Francisco, California in 1878, produced the first vacuum-packed coffee available on the market.(1)
お茶については書いてありませんが、「大山」ブランドは、「ヒルスブラザーズ」の最高級茶のようですから、真空パックされるのは納得できます。
さらに、スミソニアンのアメリカ国立歴史博物館の調査に行ったときに、この白黒写真ではわからなかったパッケージの色まで分かったのです!!
(これは、講演会にいらしてくださった方は、ご覧くださいましたね~)
そして、もっと驚いたのが、ヒルスブラザーズの日本での買い付けという写真には、静岡の富士製茶会社のメンバーと不月楼(静岡市)で写真を撮っているのです!
これは、初の真空パックティーの中身は、静岡産?ということまで推測できる写真です。
決定的だったのは!
アメリカで公開されていた「ヒルスブラザースの日本オフィス」と題された写真(ポストカード)と同じ場所で違う角度から撮られた写真が日本にもあったのです。
その写真は、ありがたいことに、静岡県森町の富士製茶会社社員のご子孫の方が保存してくださっていたものです。
日本の写真で確認すると、この茶缶に書いてある茶銘が「大山」だったのです。
さらに、富士製茶会社の代表が写っているではありませんか!
ということから、初の真空パックのお茶は日本茶である(確定)、
しかも静岡の富士製茶会社からの茶である(推定)と言えると思います。
しかし、真空パックの茶に関する歴史はヒルスブラザーズの公式HPでは、1900年にコーヒーの真空パックを販売とあるだけで、茶には触れてくれていません。
そのため、ユーカースに誠に感謝します。
この写真がなければ、日本茶が初の真空パックに詰められていた!という歴史を終えなかったと思います。
(ポストカードは吉野亜湖のFBにリンク 2020年4月1日)
(1)Steve Lanford and Robin Mills "HILLS BROS. Coffee Can Chronology FIELD GUIDE"
BLM - Alaska Open File Report 109,2006,
U.S. Department of the Interior,Bureau of Land Management,Fairbanks, Alaska
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吉野亜湖
静岡大学非常勤講師
ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員
汽車土瓶(汽車茶瓶)とユーカース
『ALL ABOUT TEA」の著者W.H.ユーカースが、大正13年に来日。
ユーカースが驚いたのは・・・
日本ではほぼすべての駅で、温かい緑茶のR・T・D=「ボトルティー」が買えることでした。
(そして私が驚いたのは)同様にインド・セイロン紅茶の浸出液も、茶色の土瓶にて販売されていたこと!値段は緑茶よりお高く、7.5セントと、倍以上です。(同書Ⅱp.431)
当時の緑茶用の汽車茶瓶は、ガラス製でした。
英語では「green bottle of tea」とユーカースは書いていますが、透明のものも多くみられますが緑色のものもありました。(個人蔵:北区飛鳥山博物館『ノスタルジア・駅弁掛け紙コレクション』64頁。)
そして、紅茶用は「little brown teapots of ready-brewed tea」と書いているので、茶色の土瓶であったのだと思われます。
・・・ということは?
茶色の汽車土瓶、見たことありますが、茶色は紅茶用だったのか?という疑問が出てきました。これについては要調査!
確かにサンドイッチには紅茶、合いますね。
この時、ユーカースは、『ALL ABOUT TEA』の執筆のため、全世界の茶産地へ取材旅行に出ていましたが、日本のように浸出液がボトルで購入できるスタイルは他になかったようです。
英国も素敵なのですが、「ティーバスケット」のように「ティーポット」に「リーフ」(茶葉)が入っていたり、「カップ」に注いだ形で出てきたりと、茶液をボトルに入れて販売という形ではありません。
ティーバスケットには、ミルクや砂糖、ケーキ、パンなどが付いているので、コンパートメントを予約したお客様向けのようです。
30セントとありますが、日本と異なり、容器は返却するので、カフェ同様、お茶とお菓子代ですね。
そして、英国の列車では「ダイニング・カー」や「プラットフォーム」でお茶が飲めたり、という場所はあるのですが、ボトルで携帯するタイプではないのです。
日本は、無糖の緑茶飲料(R・T・D)では先端を行っていると言われますが、すでにこの頃から「液体の茶」を販売していたという歴史があったことがわかります。
参考
汽車土瓶は1889年(明治22年)静岡駅で売り出されたのが始まりだそうです。
吉野亜湖「『ALL ABOUT TEA』から見る近代日本茶広告小史」(『海を渡った日本茶の広告』静岡茶共同研究会編)
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吉野亜湖
静岡大学非常勤講師
ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員
ユーカースが見た明治の日本茶2
『ALL ABOUT TEA』の著者ユーカースの明治40年の日本訪問記を読んでいます。
『Tea&Coffee Trade Jouranal』1907年13号(ニューヨーク市立図書館所蔵)から
Tea in Formosa and Japan その4
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About Japanese Tea Culture
山城はデリケートな色と味
川根(kawani)はリッチで良質
静岡はスタイリッシュなバスケットファイヤード遠州は良質 風味しっかり
八王子はリッチで川根に似てる
伊勢は下級茶の産地
というのが当時の評価です。(p20)
(kawani, yensui, hachiogiとちょっとなまってる?)
「静岡茶」は、駿河エリアの茶ことを言うが、出港地の名前で呼ばれるのでこの名になる。清水港が整備されたので、将来は「清水茶」と呼ばれる可能性もあるかもしれない。
なるほど、八王子茶は狭山の茶ですが、八王子経由だったのでこの名前を持っているのと同じですね。
国内の茶の流通について記し、皆さんご存じのバスケットファイヤード、パンファイヤードの再製法について述べ、各産地の茶園面積を一覧表で示し、ここからが面白いかも・・・
スミスベーカー商会に今後の日本茶貿易について語ってもらってます。
明治40年になると、日本は工業化をすすめ、人件費や物価が高騰し、伝統産業にとって厳しい環境となり、
良質な茶を生産できる環境は減り、今年は良質な茶はますます手に入りずらくなると覚悟している。
逆に、アメリカ政府の求める標準茶の質は上がってきていて、この差が広がる。
下級茶をアメリカ以外の市場を探す時期に来ている。
そして、次の段ではユーカースが日本茶の将来について一言。
The Future of Japan Tea(p21-22)
10年後に47%と中国茶と並んだ。
1905年から30%台に下がり始めている。
これは、中国茶に抜かれたのではなく、インドセイロン紅茶が勢いをつけてきたから。
この状態を打開するには!
広告!!
インドセイロン紅茶の広告に今やメディアを占めている。
日本茶の広告をせよ!
とこの時から、主張していたのですね!
(大正期からだと思ってた)
今回は台湾茶を丁寧に書きたかったので、日本茶の部分は少し端折りました。
写真は静岡の茶園、京都の工場(と言っても女性が座って選別作業している写真)p22
p23の写真はhotey co. 京都とあるのですが、横浜とずいぶん違って見えます。
1.testing and sampling
火鉢の上に鉄瓶を置いて正座してる!
2.basket firing
これも床に座った珍しい形
3.firing tea
ふんどしのみ付けた複数の男性がホイロで茶を揉んでいます。
4.near viwe firining process
こちらは法被を来た男性たちの手もみの手元も写してます。
5.sorting tea
天井からつるした籠に入れた茶葉を篩いにかけている様子(法被を来た男性)
6.sorting tealeaves
こちらは正座した女性が着物姿で茶の選別中。大ぶりの硬葉に見えます。
許可申請していないので、お写真をアップできず、簡単な解説で申し訳ないですが、どこかでご紹介できるようにしたいと思います。
吉野亜湖
ユーカースが見た明治の日本茶1
『ALL ABOUT TEA』の著者ユーカースの明治40年の日本訪問記を読んでいます。
『Tea&Coffee Trade Jouranal』1907年13号(ニューヨーク市立図書館所蔵)から
Tea in Formosa and Japan その3
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いよいよ日本茶編です。
Tea in Japan
長崎に3月21日の夜に入る。
3月24日神戸で調査を始めた。
神戸で会ったのは、有名どころの茶商さんですね。
スミスベーカー商会D.B.Taylor
A.A.バレンタイン商会F.W.Schwer
ジョンC.シーグフリード商会Schroath
ヘリヤ商会A.T.ヘリヤー
そして、『ジャパンクロニクル』編集者Douglas M. Young
P18は「Alfred Adeldorfer」の写真4枚が掲載されています。(この方の詳細は不詳、ご存じの方いらしたら教えてください。)
Picking:
手摘みの写真(もこもこした茶畑ではなく連なって見えます)
Weighting:
自然仕立ての園地でお茶摘みさんが摘んだ生葉の目方を計量されているところ
Firing-First process:
ホイロの上で茶葉を揉んでいるのは鉢巻きし、ふんどしのみの男性。
Rollin-First process:
筵の上で茶葉を揉んでいる男性二名
掲載された統計をみると、神戸は横浜同様、輸出量が1903年から1906年までに半分まで落ち込んでいます。
ちょうど日本で人件費が上がってきた頃です。
神戸を離れ、大阪に向かう途中で京都に立ち寄ったユーカース。それから国鉄に乗って四日市、静岡、横浜、東京と訪れています。
宇治の覆い下茶園の写真や茶摘み娘の集合写真、茶摘み風景や茶園の写真も全部で4枚掲載。(p21-22)
横浜で数週間すごし、関東大震災前のグランドホテルに宿泊したとリトルジャーニーシリーズに書いてありました。
横浜で最後の夜に、大谷嘉兵衛(中央茶業会)から日本式の夕食に招待され、三橋信方(横浜市長)、神奈川県第一秘書官(N.Saka)、商工会議所の秘書官Takekuma岡田の諸氏が同席して大変良い思い出だった。
ちょうど東京で産業博覧会が開催されていたので行った、とあります。
「東京勧業博覧会」(3月20日―7月31日)のことですね!
なんという偶然!
博覧会で、最新の茶のパッケージアイデアや「植民地」の台湾館を見学。
どんなパッケージだったのでしょうね。
東京では、T.Furuta(古田商会)に会い、生産者と工場を訪問。
その他、AAバレンタイン商会のマネージャーA.Rock、MJブランデンステイン商会の中島、ゴットリーブ&水谷商会のN.Gottlieb、メイシー商会のE.J.Cowan、スミスべーカー商会のN.F. Smith に会う。
E.J.Moss(茶業者でないが日本在住期間が長く、茶に関する書籍も多く所蔵している)、ジャパンアドバタイザーのHarrison、ジャパンガジェットのCyril Allen、トーン&サンズのE.V.Thorn, F.Schorederなど他の編集者や記者たちと面談している。
さて、次はいよいよ日本の茶園や製造についてです。
次へとつづく
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吉野亜湖
ユーカースが見た台湾と日本の茶2
ユーカースが見た明治の
「台湾と日本の茶」2です。
『ALL ABOUT TEA』は大正13年に日本と台湾に調査に来てますから、
こちらの記事は明治期なので、重要な記録なのです。
1のつづき・・・
Tea in Formosa and Japan
台湾の昨今の動きについて
価格競争に対応するために、下級茶の利用を進めるため、包種茶と紅茶の製造が期待されている。
トルコとロシア向け磚茶(せんちゃ)と紅茶を台湾で行うという計画だ。
包種茶は、烏龍茶の下級品や「出物」を用いてジャスミン、キンモクセイ、クチナシなどの花香を付ける。中国人が多いサンフランシスコ、フィリピン、ハワイに出荷される。
そして、台湾の生産産業局の打ち出した対策として、1.試験場を活用し生産効率を上げる。2.官営工場で紅茶と磚茶の製造を推奨。3.組合を組織を作り、ブローカー専売体制から脱却する。4.紅茶と磚茶の販路を広げる。税制も有利になるように変革。
この税対策が輸出には重要だと強調しています。
出会った人々は最後に書いていました。
淡水から台北へは列車移動(約1時間)
そこで会えたのが Mr.Julin H. Arnold(アメリカ領事)。
日本人は、 K.TAKESHIMA(農務省チーフ)、S.Miyoshi(通訳)、R.Hosui(彼は何度もティー&コーヒートレード・ジャーナルにも寄稿をしてくれてる)、M.Kanokogi(知事代行、Mr.Iwai(知事)が東京で不在だったため)、Mr.T.Kowada、Mr.Yuji Fujimura(ジェームス博覧会台湾館の担当者)。
次の日、Hosuiと共に安平鎮官営工場を見学した。製茶専門官(tea expert)のM.Hosuiが案内してくれた。
正式名は「安平鎮茶樹栽培試驗場」のようです。ここの製茶場の写真も3枚あり、レンガ火炉(原崎式の再製機に似ている)と、たぶん揉捻機と合組用の機械。
(「会った人」リストには「藤江」の名前はありませんでしたが、試験場であいさつしなかったとは考えられません。いずれにせよ、藤江の功績は書いていました。)
面白いことに、台北には当時、西洋風のホテルがなかったそうです。そこで、H.Paul Jarmainが留守だったので、C Walter Cliftonの計らいで、淡水川沿いに建つマーカンタイル商会に宿泊させてもらったとあります。
マーカンタイル商会のJarmainとF.Jorge de Tellsに感謝する、と述べています。
同社の支店は神戸と横浜にもあり、蘭字もいくつかウエブでも見ることができますね。
15頁にあるマーカンタイル商会(基隆市)の写真には、屋号「〇サ」とあるのが気になります。マーカンタイルと言えば、蘭字が残ってますね。(すごく日本的な絵)
その他の写真は、「淡水港」と「大稻埕」の景色のお写真と(p12)、大稻埕で中国人との写真(typical foreign tea hong)と「沿岸」の風景の写真2枚(p13)。そして、14頁には、アメリカ式で拝見している大稻埕の「テスティングルーム」と、台湾の茶箱が見れる「パッキング」作業場の写真があります。
以上、台湾編でした。
いよいよ、次は日本編です。
参考資料『Tea&Coffee Trade Journal』1907年13号(ニューヨーク市立図書館蔵)
つづく
吉野亜湖
静岡大学非常勤講師・ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員