わび とは? その二

わびとは何か?

の続きです。

 

珠光の時代

 

数江氏は、「珠光は、唐物道具に対する美的視点を転換させてしまった。」と言います。

 

珠光は、利休さんの二世代前の茶人です。

 

皆さんは「珠光青磁」茶碗というのをご存じですか?

珠光が好んだという茶碗は、

澄み切った高貴性をたたえた青磁でなく、

うす茶褐色の濁り混じった味わいのものでした。

 

紹鴎の時代へ

 

利休の師匠とされる紹鴎(じょうおう)の「侘びの文」と呼ばれている手紙の中に、以下のように「わび」が定義されています。

 

正直に慎み深くおごらぬ様という清浄な心の在り方を「わび」という。

 

この「わびの文」の全体は、一切の虚飾を捨て去った心の状態、禅的に言えば、人間本来の面目(無一物の境地)に立ち還ることに軸足を置いているような内容です。

 

そして、具体的に、初心者が「冷え枯れる」と言って、備前だ、信楽だというような独りよがりの道具をふりまわすことではなく、真正な良い品を徹底的に知り尽くした上ではじめて「枯れた」境地も会得できる、というのです。

 

「この美意識は、対象に対して、新しい美を見出す創造的な力のことであった。」(111頁)

 

利休の時代

 

しかし、利休の時代になると、また一歩すすみます。

利休は、既存の名物道具への価値観を抜け出し、自ら望む姿の茶道具を「創作しはじめた」というところに特徴があるということです。(依田 14頁)

 

ここからは、『近代「美術」と茶の湯』依田徹著からみていきましょう。

 

「わび」は、隆盛以降の隠者たちの草庵生活で、「わびしさ」だけでなく、世俗の名誉や利害を重んじる価値観から自由であり、簡素な生活態度や閑寂な風情を積極的な意味で評価していく。

 

「さび」は、江戸時代、松尾芭蕉にも継承され、「既存の秩序や価値観から自由に解放され、世界内の「自己」とそれをとり巻くいっさいの事物をそのあるがままの姿に於て認識」しようとする態度として位置づけられた。

 

「さび」は「さぶ」「さびし」「さびたる」という用語が名詞化したもので、これも平安時代末以降に肯定的にとらえられ、室町時代には、和歌の世界で重んじられる価値観になっていく。(34-35頁)

 

そこから、「わび」は茶の湯と結びついて簡素さを示し、

「さび」は俳諧と結びついて、古びた味わいという意味を強める。

 

 

私が、「さび」とは?
と聞かれたときに「鉄が錆(さび)る感じですかね」と答えると、「いやいや、それは漢字が違うだろう」と言われましたが、実際、そんな感じなのです。

 

古典の授業で、徒然草に、漆が新品でピカピカな状態よりも、使い込んでうっすらはげた感じも趣あるというのを読みましたが、これは「さび」という感覚です。

 

そのため、絵にすると、、、

それまであったものが無くなる寂しさ、余情を楽しむような感じなので、

陽が陰に向かっていく状態「さび」

 

もともと十分では無い、不足している状態が「わび」、だからこそ工夫したり、今あるもので楽しんだり、創造するという境地、むしろそれが自然そのものだという状態で、よって絵にすると、陰が徐々に陽に向かいながらある、その先がワクワクするような、想像力を掻き立てられるような状態。

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そんな風に私は感じています。



きっと、お茶をしていない人が「わびさび」と両方合わせた言葉を使うときは、枯淡のイメージを言われているのかと感じますが、

実際、茶道をしている人から、「わびさび」と聞かないのは、やはり、「わび」が茶道で目指す境地(枯淡というより創造のパワーを感じる)ということがあるのかもしれませんね。

 

また、谷晃氏は、

 

「わび」は茶の湯において目指すべき境涯を指す「生活の理念」で、

「さび」は、「文学の理念」である。(=わび茶が表出する美を規定して説明する語句)

 

 

としています。(36頁)

・・・ということは、

「わび」は精神的な面(思想とか心の在り方とか)を指し、その精神を実践する所作や、その思想が表に現れた道具類などにも感じられるもので、

「さび」は表面的な形や道具の様子とか目に見える有様、風情に対して感じるものなのかもしれません。

またまた、「錆」のお話で恐縮ですが、

茶の釜をほっておいて錆が出てしまうのは、茶人として失格ですが、

きちんと手入れをしても自然に錆てしまうときもある。

(それをヤスリで磨いてピカピカにしたり、油でテカテカにせずに)

そのまま使うのは、自然であり、ある意味、「さび」た風情ですよね。

 

というと、「わびさび」と言われれば、茶の精神性と見た目を合わせて感じているという言葉なのかもしれません、と思えてきました。

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そして江戸時代

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江戸時代中期以降、茶書の出版が盛んになると、

逸話集や茶道書で、「わび」は茶人の理想的な精神的境地として語られるようになります。

 

また、近代へと、つづく

(次回のメモです。近代に、「わび」「さび」に関しては、昭和初期のナショナリズムの高まりの中で、取り上げられ、戦中、積極的に美術史で強調されていくそうです。)
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吉野亜湖(茶道家