「わび」って何?

茶道で言われている「わび」という言葉、軽く使ってますが、説明すると、何?


・・・ということで、数江教一氏の著作『わび』という本からひも解いてみましょう。

 

言葉としては、

 

もともと、思い煩(わずら)う、はかなく思う、という「わぶ」(動詞)からきている。

 

日本最古の和歌集万葉集では、「思いわぶらむ」など、思いわずらう、とか、もの悲しく思う、という意味で使われている。(7世紀後半から8世紀後半)

 

 

平安時代古今集では、「わびぬれば」など、不遇な状況とか、心細い生活状態についても使用され、いずれにせよ、消極的な意味あいで使われています。

 

それが、室町時代になると、風雅な心の持ち主なら、立場や場に相応しく「わざともわびてこそ住む」というような、積極的な意識が出てくるのです。(謡曲『松風』)

 

私はしたことがないのですが、キャンプを楽しまれる方たちは、癒しというのもありますが、自身を世の利害打算などの関係から切り離して、自然そのものに近づけていく、回帰していくということを無意識に楽しんでいらっしゃるのかなと、これを読んで思いました。

 

数江氏は、室町時代の庭園枯山水)について面白い分析をされています。

 

庭園は、自然を人工的に再現しようするものだが、単なる「模写」でなく、「心の表白」である。(45頁)

 

これは、茶室で花を生けることにも通じます。

花は野にあるようにいけよ」という教えがありますが、単にそのまま持ってくるということではなく、「自然を超えることで、かえって自然の本質を求める」という行為です。(44頁)

 

水墨画に対しては、

 

水墨画は、潤のある淡墨、光と艶のある濃墨、かすれて乾いた渇墨など自由に配合することによって、色彩以上の色彩をうちに秘める。色彩を書くがゆえに、かえって観る者に無限に多様の色彩を想像せしめる可能性がある。(23頁)

 

写実的な手法は、客観的な真実性を求めるのに対し、

水墨画は対象の真髄を主観的にとらえ表現しようとする、というのです。

 

いよいよ、そして、「わび」茶人ですが、利休の弟子であった山上宗二という方が書いた本にこのように書いてあります。(現代語訳)

 

名物道具を持たず、胸の覚悟、作分(創造性)、手柄、この三条件を持った者を「わび数寄」と言う。(『山上宗二記』)

 

山上宗二は、秀吉を何度も怒らせ、最期は耳と鼻をそがれて打ち首にされたという有名なエピソードが伝わっている茶人ですよね。

 

茶道について「わびさび」と、「わび」「さび」をセットの言葉として使うので、「わび」と「さび」の違いは何か?という質問がありました。

 

え?質問を受けて、その時私が思ったのは、

「わび茶」「わび茶人」とは言いますが、

「さび茶」「さび茶人」という表現は聞いたことがありません。

 

「わびさび」って、何?

というところから、まずは、「わび」について考えをまとめてみようと思いました。

 

実は私の修士論文は茶道の逸話から考える「わび」茶でした。。。

(思い出した!はるか昔のこと。)

 

そのとき、「さび」というワードは、「さびたるはよし、さばしたるは悪し」(自然と寂びたのはよいが、わざと寂びさせるのは良くない)ということくらいで、あまり「さび」についての違いを考えたことがありませんでした。

 

(だいたい、茶道をしている人は「わびさび」なんて言うのでしょうか?「わびてるねえ」は言うけど、「さびてるねえ」というのは聞いたことがない、、、でも、なぜ?)

 

ましてや、「わびさび」セットでの考察はしたことがありませんでしたので、反省して、考えてみようと思います。

 

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牧谿画(大英博物館蔵)


(つづく)

吉野亜湖(茶道家

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もう少し説明を追記しておきますと、

室町時代の文化は、観察する対象から離れて、利害打算にとらわれず、対象そのものを見極めようとする態度、そこに人生の生きがいを見出そうとする立場 内面的には、人生の最も奥深いところを見つめようとする(42頁)ーーここがあったので、「わび」が積極的意味を持ち始める。

 

唐物鑑賞による優れた美術品や工芸品の美に対する秩序を形成した東山時代の知識人の洗練された美的教養が、観念の世界、内面的深さを求める基礎を作った。(80頁)ーーこの基礎があったので、次の「わび茶」「わび茶人」が生まれてくる。

ということで、つづきは、わび茶人たちの説明に行きます。(楽しみに)