明治初期、日本が紅茶の製造を始めたとき、政府は「中国式」を最初に採用し、すぐに「インド式」に変えました。
この中国式とインド式というのは「どう違うのでしょうか?」という疑問が残ります。
資料からわかる範囲では、
中国式は、明治7年に政府が発行した『紅茶製法書』*1から要約してみると、以下の製法になります。
1. 生葉をムシロの上に広げ、一時間ほど太陽にさらし、時々上下を入れ替える
2. ムシロの上で、手で押し揉む
3. 大型の茶箱に山盛りに入れ、蓋をして、蓋の上に重石を置き、太陽光の下で一時間干す。
4. 翌朝、蓋を取ると、固まった茶が紅色を帯びる。それを取り出して、焙炉の上で塊をほどきながら、細くなるまで揉む。細かい葉は取り除く。(ここは宇治製煎茶法と同じ)
最後に、三ミリくらいの穴の篩で細かい葉はふるって落とし、葉を茶箱に保管する。
そして、インド式は、インドで製法を学び、国内の伝習所で指導者をしていた多田元吉(明治8年、紅茶製法を調査すべく中国・インドに派遣された)の『紅茶製法纂要』(明治11年)から、「新法」を読み解いてみます。
1. 萎凋
2. 捻揉
3. 奄蒸:広げてしばらく置く。(箱などに堆積させて湿った布をかけたり、機械を用いる人も居る)*発酵過程:元吉は、ここを長くしすぎるのがわが国の紅茶、つまり中国式だと述べ、インド式は過度にしないようにと注意しています。
4. 日光があれば先に日干乾燥させてから、焙炉乾燥。
この2つの書から読み解ける範囲では、捻揉と奄蒸(発酵過程)を「適度」にするのがインド式ということのようです。(あくまでのこの二つの書籍の比較からということだけですが)
そして『茶業五十年』静岡県茶業組合総合会議所(昭和十年)には、「明治四十四年にいたり三重の人伊達民太郎*2氏苦心研究、従来の支那式日干製より、断然インド式屋内萎凋製に転向し」p88と、ここにははっきり二つを並べて書いてありますので、
この本からは、当時”採用”した(または認識していた)、いわゆる「中国式」と呼んでいたのは日干萎凋、「インド式」は屋内萎凋であった、と読めます。
以上は、上記の資料で探れる範囲での話です。製造のご専門の方にもご意見を聞きながら謎解きができたらと思います。
そのころ静岡では?
全国的には、インド式が伝習されていくのですが、静岡ではしばらく中国式が民間の伝習所で採用されていたそうです。(というのは、元吉の指導ではなく、中国人の指導者が入っていたという意味)
静岡の尾崎伊兵衛らが中心となって、有渡郡小鹿村に紅茶伝習所を開き、教師に清国人の胡秉枢を招きました。
これが静岡県初の紅茶伝習です。
伝習生二〇名だったと『静岡銀行史』にあるそうです。(資料未確認、引用のみ)
その静岡初の紅茶の先生が書いた書籍「茶務僉載(ちゃむせんさい)」
胡秉枢は、上海で日本領事に「日本の山茶で紅茶を作るとよい」と提案するのですが、すでにこの時期、日本では中国製法(以前招いた中国人指導者による製法がうまくいかなかったため)ではなくインド製法に切り替えていた時だったので、日本政府としては胡秉枢を雇わなかったのですが、民間で雇いたいという方が現れ、静岡に派遣されたという経緯です。