ユーカースが見た台湾と日本の茶2

ユーカースが見た明治の

「台湾と日本の茶」2です。

 

『ALL ABOUT TEA』大正13年に日本と台湾に調査に来てますから、

こちらの記事は明治期なので、重要な記録なのです。

 

1のつづき・・・

Tea in Formosa and Japan

台湾の昨今の動きについて

 

価格競争に対応するために、下級茶の利用を進めるため、包種茶と紅茶の製造が期待されている。

 

トルコとロシア向け磚茶(せんちゃ)と紅茶を台湾で行うという計画だ。

 

包種茶は、烏龍茶の下級品や「出物」を用いてジャスミンキンモクセイクチナシなどの花香を付ける。中国人が多いサンフランシスコ、フィリピン、ハワイに出荷される。

 

そして、台湾の生産産業局の打ち出した対策として、1.試験場を活用し生産効率を上げる。2.官営工場で紅茶と磚茶の製造を推奨。3.組合を組織を作り、ブローカー専売体制から脱却する。4.紅茶と磚茶の販路を広げる。税制も有利になるように変革。

 

この税対策が輸出には重要だと強調しています。

 

出会った人々は最後に書いていました。

 

淡水から台北へは列車移動(約1時間)

そこで会えたのが Mr.Julin H. Arnold(アメリカ領事)。

 

日本人は、 K.TAKESHIMA(農務省チーフ)、S.Miyoshi(通訳)、R.Hosui(彼は何度もティー&コーヒートレード・ジャーナルにも寄稿をしてくれてる)、M.Kanokogi(知事代行、Mr.Iwai(知事)が東京で不在だったため)、Mr.T.Kowada、Mr.Yuji Fujimura(ジェームス博覧会台湾館の担当者)。

 

次の日、Hosuiと共に安平鎮官営工場を見学した。製茶専門官(tea expert)のM.Hosuiが案内してくれた。

 

 

正式名は「安平鎮茶樹栽培試驗場」のようです。ここの製茶場の写真も3枚あり、レンガ火炉(原崎式の再製機に似ている)と、たぶん揉捻機と合組用の機械。

(「会った人」リストには「藤江」の名前はありませんでしたが、試験場であいさつしなかったとは考えられません。いずれにせよ、藤江の功績は書いていました。)

 

面白いことに、台北には当時、西洋風のホテルがなかったそうです。そこで、H.Paul Jarmainが留守だったので、C Walter Cliftonの計らいで、淡水川沿いに建つマーカンタイル商会に宿泊させてもらったとあります。

 

マーカンタイル商会のJarmainとF.Jorge de Tellsに感謝する、と述べています。

同社の支店は神戸と横浜にもあり、蘭字もいくつかウエブでも見ることができますね。

 

Formosa Markantail co. 蘭字1

蘭字2

 

15頁にあるマーカンタイル商会(基隆市)の写真には、屋号「〇サ」とあるのが気になります。マーカンタイルと言えば、蘭字が残ってますね。(すごく日本的な絵)

 

その他の写真は、「淡水港」と「大稻埕」の景色のお写真と(p12)、大稻埕で中国人との写真(typical foreign tea hong)と「沿岸」の風景の写真2枚(p13)。そして、14頁には、アメリカ式で拝見している大稻埕の「テスティングルーム」と、台湾の茶箱が見れる「パッキング」作業場の写真があります。

 

以上、台湾編でした。

いよいよ、次は日本編です。

参考資料『Tea&Coffee Trade Journal』1907年13号(ニューヨーク市立図書館蔵)

 

つづく

吉野亜湖
静岡大学非常勤講師・ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員