ユーカースが見た「台湾と日本の茶」

台湾と日本の茶

 

『ALL ABOUT TEA』の著者ユーカース主筆を務める『Tea & Coffee Trade Journal』(1907年13号)の記事ですが、

 

なんと、表紙が大谷嘉兵衛!(まだ若い雰囲気で感動)

 

ユーカースは、早く父を亡くし、大谷嘉兵衛を「第二の父」と慕っています。

この号に台湾と日本茶についての記事が掲載されているのです。

 

ニューヨーク市立図書館で調査していたので、共有させていただければとお書きします。

改めて、台湾と日本の茶

Tea in Formosa and Japan

「By Sir. Oracleとして書いています。(p11)

ユーカースのペンネームではないかと思いますが、「サー オラクルの手紙」という形式をとっています。(なぜ?名前を書かないのかわかりません。)

しかし、ユーカースは明治40年4月14日に横浜入りしているので、確定でいいと思います。(ボスからの手紙という意味で編集者が書いたのか?謎ですが^^内容からしてもユーカースが書いたと考えてよいと思います。)

 

1907年4月20日、日本茶業の調査を終え、中国の蒸気船に乗り、ホノルルへ向かった。ホノルルから日本と、1895年から日本の統治下におかれた台湾の茶についての手紙を書く。

 

The Trip to Formosa(p11)

 

2月19日、厦門から台湾に入った。(船に乗っていた白人は私だけという中)淡水についたのは午後2時だ。

 

台湾の地理について解説あり、日本統治時代になって「台湾の地名は日本名と中国名が採用されているので混乱の元となっている」と指摘しています。

 

台湾の原住民は中国統治時代なども経ているが、日本人に対してとても好意的(friendly)に見える

 

ということも書いてますね~(よかった)

 

添えられたお写真は、「安平鎮の官営茶工場」と「試験茶園」(まだ植えたばかりの小さな茶樹たちです)の二枚。(p10)

 

Tea in Formosa(p12―14)

 

4,000万ポンドの規模のアメリカ茶市場に台湾茶が登場したのは40年前、この時、中国茶のシェアは80%で、日本茶は20%。

 

40年前と言えば、インドの茶が、97%中国茶が占めるイギリス茶市場に出てきた頃。今や、インドの茶がイギリス茶市場(2500万ポンド規模)を独占し、中国茶はわずか2.5%となった。

 

 

(それはすごい)

 

日本茶台湾茶はカナダを含む北米市場で伸びてきた。1906年アメリカ茶市場は11500万ポンドと伸び、台湾茶は15%程度のシェア。ただこの状態をキープするのはインド、セイロン茶の台頭を考えると厳しい。

 

台湾の茶園は高地が多い。土壌や気候も栽培に適しており、総面積は79858エーカー。年平均2000万ポンドの生産量。金持ちの中国人オーナーが経営している。

 

そういえば、この現状に対し、台湾茶業政策で、貧しい農家さんたちが潤うように回していくということを掲げていました。→これは別稿に書きますね。

 

台湾烏龍茶は、アメリカで香味に優れているため高値で取引されている。茶を購入する消費者は、価格に敏感である。アメリカでこの10年間、台湾政府は万博や催事、書籍など様々な手法で広告を展開しているが、シェアは伸びていない。日本茶と同様に低価格品との競争に苦しんでいる。

 

機械製造の紅茶と並ぶ価格帯にする必要があるため、台湾政府が機械製茶の試験をしたが第一回目は成功しなかった。

 

ここで、烏龍茶と緑茶、紅茶の製法を比較して書き、すでに機械化が進んでいる紅茶や緑茶と違い、烏龍茶の製法は手作業で機械化が難しいと述べ(以下)

 

All of its(烏龍茶の) various operations being carried on by hand.

Thus the process of manufacture for oolong teas as contrasted with those employed in the manufacture of green and black teas is not conducive to the production of a cheap tea.(P14)


さらに流通も複雑でコストカットが難しいことを伝えています。

 

農家は小規模で、「製造者」ではない。

そして、中国人ブローカーやコンプラドルの手を経て外国の輸出業者に渡る。

全て中国式で行われているので、現在、台湾政府は生産と流通コストを下げる努力をしている。

 

そして肥料による生産効率のアップは実を結んでいたようです。

藤江勝太郎(1865~1943)氏の功績をユーカースは書いています。

Mr. Fujie, the tea expert, has been endeavoring to show that the application of proper fertilizers to the cultivation of the plant will increase the productivity of the plant by at least 75 per cent. Without in the least ruining the flavor of the tea. He has been demonstrating to the growers through experiments performed by him in his model gardens That, after deducing the cost of the ferilizers, growers can effect an increase of at least 40 per cent. In the productivity of the plant. Branches which would ordinarily require pruning in ten years are enabled to bear for twenty years throufh the incresed vitality imparted to the plant by the intelligent aplication of fertilizers, so Mr. Fujie contends.(p14-15)

 



さいごに、なんと、なんと、緑茶製造のところで、

着色についても触れていました!!

(これは別な原稿に書きますね!楽しみに)

 

The leaf, after undergoing this process(荒茶製造), is green, although coloring matter is generally introduced to effect uniformity of color. The coloring matter introduces into the tea a peculiar flavor, as is the case with the Japan tea sold in the United States.(p12)

 

 

製茶後に「色を均一にするため」着色する。そして、え?アメリカで販売されている日本茶がそうだが「着色剤が独特の風味をもたらす」?

 

この当時の日本茶の着色に対して、アメリカでは嫌悪感なく書く人も多く(むしろアメリカ人は着色を好むと書くことも多い)、外観を良くするとか、品質保持(見た目の劣化を防ぐ)という目的は書いてありましたが、ここに初めて「風味」にも影響するというのを確認しました!!

もしかすると、、、「再製」つまり再乾燥によって、青臭さが取れ、香ばしくなるという評価がありましたから、coloring matter は再製作業全体のことを言っているのかもしれないとも読めました。(しかし素直に読むと「着色剤」なのですけどね)


謝辞 梶原氏にこの記事について教えていただいて見つけられたことを感謝申し上げます。

 

長くなったのでここで一回中断。

次へつづく

『Tea&Coffee Trade Journal』1907年13号(ニューヨーク市立図書館蔵)

 

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吉野亜湖

静岡大学非常勤講師・ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員

煎茶の淹れ方(1) いつから湯冷ましをすすめたのか?

煎茶の淹れ方

 

いつから湯冷ましを推奨するようになったのか?

近代の茶の淹れ方について調べてほしいという宿題をいただきました。

日本茶インストラクターのテキスト等で、煎茶を淹れるときは70度くらいに湯を冷ましてと教わりました。(私は10期生なのでその後変化あるかもしれませんが)


明治、大正時代は、煎茶は主に輸出用に製造されていたので、茶業組合も海外向けの淹れ方については積極的にPRしてきましたが、

大正末くらいから、国内需要の喚起のためにも、国内向けの淹れ方ガイドラインを提案したらどうかという意見が出てきます。

以下はは、日本茶の輸出業社 富士製茶会社の原崎源作が提案したものです。彼は輸出促進の委員会メンバーでもありました。

 

大正13(1924)年の全国茶商招待会にて

 

原崎源作が「全国の茶業者諸君」に向かって問いかけました。(大正14年5月『茶業界』8頁に掲載)読みやすいように現代仮名に改めています。

 

煎茶の愛好家や茶道の先生方は、知らずしらず濃い茶を好むようになり、それを一般の人にも勧めたがります。

 

我ら茶業者の注意すべきは、初心の青年男女に茶は美味いものであるという快感を与えるように適当の濃度の茶を供して嗜好をすすめていかねばなりません。

 

それが我ら茶業者の使命であると信じます。

 

幸い今回は全国の茶業者諸君がお集まりのゆえ、煎茶の淹れ方についてご意見を伺い、将来、煎茶の淹れ方の基準というべきものを作りたいと思います。

 

なにとぞ忌憚なきご批評を仰ぎます。

静岡県茶業組合聯合會議所宛てに郵送ください。)

 

 

ここに述べられたママの「煎茶の淹れ方」が、なんと、大正14(1925)年12月刊行の『茶飲みばなし』に「煎茶の適當な淹れ方」として、少し編集されて掲載されていました。↓

「煎茶の適當な淹れ方」(『茶飲みばなし』国立国会図書館デジタル)

原崎の名がないのと、茶業者への問いかけではなくなっていますが、淹れ方は、原崎の提案と全く同じです。

『茶飲みばなし』の序文に、

 

帝国農業新聞社の滝井國平は、『京都茶業界』を創刊し京都茶業界の実務に関わりながら得た資料を基に、この本を編集した。

 

とあります。

 

となると、やはり、原崎源作の提案した煎茶の淹れ方が、ここでも紹介されていたということでしょう。(もう少し調べてみますが)

 

そうなると、、、国内の煎茶の淹れ方PRの基礎が、ここから始まるということでしょうか?調べてみるのは面白いと思いました。

 

海外戦略会議で、紅茶も緑茶も同じ淹れ方を提案するのではなく、緑茶の淹れ方は独自に示していくべきだと、原崎源作は主張していました。(「西郷文書」昭和5年)

 

日本茶業者の使命というものを原崎は常に感じ、実行していたと感じます。

そして、きっと原崎なら、どこにだれがコピーしようとも、逆に広まることを喜んでいたと思います。

(引用文はブログでは読みやすいように現代語に改め、要約している部分もあるため、原文にあたることをおすすめします)

 

吉野亜湖(茶道家

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静岡大学非常勤講師

ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員


参考

帝国農業新聞社 編『茶飲みばなし』,帝国農業新聞社,大正14. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1018817

 

 

 

 

 

 

「煎茶」と書いて「いりちゃ」と読む?ー明治の茶業書『製茶新説』から

前回、茶の木に「雄」「雌」があるということで、ご紹介した明治の茶業書『製茶新説』は、明治六年の刊行ですから、幕末くらいから明治初期の日本茶について読める本だと思います。

そこで、この書にある明治初期の製茶法について、まとめてみました。

すると、煎茶と書いてある製法は、なんと「センチャ」ではなく、イリチャと読ませているのを見つけました。(以下要約)

煎茶(いりちゃ)の製法は、生葉を平釜に入れて二股の棒でかき回し、(よれ方が不十分で乾燥しすぎていたら水を加え)水気が七分ほど抜ければ、渋紙の上に広げて日陰で乾燥させ、その後、助炭で焙り上げて乾燥させる。(二十ウ)

 

この「煎茶(いりちゃ)」は、明治初期にはすでにあまり見られない製法で、「青製」が広まる前の製法だとあります。

では、「青製」とは?

・青製は、「中古」からの製法で、蒸葉をの上で揉んだ後、焙炉で揉みながら乾燥する。(十九オ)

 

・その省略版では、の上で揉んだ後、そのまま筵の上に広げて日乾させ、再び揉み返し、焙炉の上で乾かす。これは早ごしらえの手法なので、青製より品質は劣る。(二十)

 

青製は、筵(むしろ)を使う、というところが、特徴です。

 

そして、青製は「本製」より劣るとあります。

青製は、本製よりも早く仕上がるが、飲むと一煎目で香気が出尽くすため、煎がきかない。本製焙炉でやわらかく揉むため、徐々に香気が出て上質な仕上がりとなる。

 

手揉み用の焙炉自体も、「本製」と異なるそうです。

 

本製とは、現代の手揉み製法に近いと思われます。

要約すると、

 

摘採した新芽「三葉」を蒸した後、団扇で水気をちらしながら冷ましたら、焙炉(助炭の上)で揉みながら乾燥させ、水気が無くなったら、脇焙炉に移して更に乾燥させる。(十三~十四)

 

(以下の図も参照)

 

本製が最も「佳品」なので主体に記すとありますが、まだこれが「煎茶(せんちゃ)」の製法という意識はないようです。

面白いですよね。

 

そして、晩茶の製造法や、え?と思わせる「くさらせる」という製法もあるので、また別稿にてご紹介いたします。

 

この本は実際に行われていることを書いている、とあるので、当時の製茶について参考になります。(つづく)

『製茶新説』茶製法之事より

『製茶新説』茶製法之事より

『製茶新説』茶製用機械之総図より

『製茶新説』(国立国会図書館デジタルライブラリー)



吉野亜湖

静岡大学非常勤講師

ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員

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お茶の木に雄雌がある? 明治期の茶業書『製茶新説』から

増田充績編『製茶新説』(三省書屋)は、「実施経験」から書かれた茶の栽培製造者向けの実用書です。日本茶の輸出が盛んになってきた明治六年の出版です。

 

渋沢栄一が、あとがきを書いて推薦しています。

『製茶新説』渋沢栄一あとがき(国立国会図書館デジタルライブラリー)

 

この本では、茶の木の「」と「」を見分けることが重要だというアドバイスがあります。

 

え?お茶の木に雄雌があるのか?

そう思いますよね。

当時の茶畑は、種から茶の木を育てていました。

「茶木の雄雌を見分ける事」(五ウ)
を要約すると、

 

種を蒔き付けてから4か月くらい過ぎると芽が出てくる。

成長に随って雄雌の区別が分かるようになる。

雌の木は枝数が多く背も伸びやすく、雄の木の二倍ほど芽が収穫できる。

 

 

そのため、三年目くらいに見分けて、を中心にしていくと良いとあります。

 

現在のように品種という概念がないので、「雄」「雌」と呼んで区分けしていたのですね。

 

『製茶新説』から茶の雌木と雄木の絵(国立国会図書館デジタルライブラリー)

 

オンライン日本茶勉強会で、この本をご紹介ましたが、雄雌は驚きが多かったので、メモしました。

 

この本は他にも、幕末から明治期の製茶法や茶種について学べることも多いので、別稿でまたご紹介します。

 

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吉野亜湖(茶道家

静岡大学非常勤講師

ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員




ヨンコン茶?グリ茶?玉緑茶?ー昭和の日本茶

ヨンコン茶」は、「グリ茶」または「玉緑茶」とも呼ばれます。

 

昭和初期、中国の勾玉状の釜炒り製緑茶を模して、蒸し製で製造の工夫がされました。

 

昭和初期

 

大正末に日ソ国交が復興し、「ソ連(南露)」に玉緑茶、北部アフリカと西アジアに玉緑茶と紅茶という新たな仕向け地が開拓され、1939(昭和14)年(約24,900トン)を頂点として、毎年2万トンほどの「黄金時代」を迎えました。(『日本茶業史 第三篇』p.99-100)

 

西比利亜(シベリア)鉄道と満州国

 

日本茶業史 第三篇』(p137)によると、1935(昭和10)年、シベリア鉄道の一部が満州国に譲渡され、譲渡金の3分の2は日本産物で約三年間かけて納められることになった。日本茶はその主要部分(約1割)として、振り分けられたことも、輸出が拡張した一因となったと分析されています。

 

名称の由来

 

「世界お茶まつり2022」展示パネルで加納昌彦氏が紹介されていた昭和六年の『茶業試験場彙報 第4号 輸出向特種製茶法』に、

 

ヨンコン茶とは?

グリ茶とは?

 

両者の名称の由来についての章があります。

全国農業会茶業部編『日本茶業史 第3篇』全国農業会1948年(国立国会図書館デジタル)

茶産地の方は、形状が勾玉状でグリグリしているので「グリ茶」となったと言われたり、煎茶(荒茶)の製造工程の一つである精揉工程がないから「ヨンコン」(5過程中4で乾燥になる:①蒸熱②粗揉③揉捻④中揉→再乾・乾燥)という話も聞いたことがあるのではないでしょうか。

 

この本によると、「定説」はないが、と前置きし、以下のように説明しています。(p5)

 

ヨンコン茶:試験場の留学生であった「呉覚農」(現代中国茶業の基礎を築いた偉大な人物として知られる。著書多数。)によると、浙江付近の茶に似ており、これが上海北方の甬江(ヨンコウ)で集散されていたため、「ヨンコウ」から「ヨンコン」茶となった。

 

グリ茶:堀有三によると、「Green」の転訛(なまり)から「グリ」茶となった。

 

堀有三は、ウィリアム・ユーカースが『ALL ABOUT TEA』(1935年)を書く際に日本茶業史の知識を提供した人としても知られていますが、静岡県掛川出身で横浜に出て明治期から輸出茶業につき、茶業中央会の翻訳嘱託であったことは確認できています。(茶業組合中央会議所編『茶業彙報 第15輯 製茶の消費増進と化学的研究』茶業組合中央会議所、大正9-15、p26) また、三井製茶部にもいたようです。(『茶業界』静岡県茶業組合連合会議所1939年7月号

 

深蒸し茶のルーツ』(2013年)にも掲載しましたが、柴田雄七氏(2002年)が六根(眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根)の「四番目の舌根」から転じて「ヨンコン」となったということを書いています。(「深蒸し茶誕生物語」『緑茶通信4』世界緑茶協会p31-32)

 

これらは、坂本孝義氏の「玉緑茶の歴史的形成過程」(2017年)にも紹介されています。(『茶業研究報告』熊本県産業技術センター 123:p21〜26)

 

ここで興味深いのは、中国のように釜炒り製のグリ茶ではなく、なぜあえて蒸し製にしたのか、という疑問に対して、近代の輸出茶の不正・粗製茶問題にあることを坂本氏が指摘している事です。当時の輸出茶業の中心地であった静岡県は、明治26年には「釜炒り茶」を粗製茶として製造を禁止しています。

 

(なぜ、面白いかと言うと、同様に明治期の着色茶を一概に不正・粗製茶と分類することに疑問があるからです。これについては別途お書きします。)

 

また、蒸し製緑茶である煎茶が輸出茶の主力を占めていたため、この時、茶工場にある製茶機械を活かした形で製造できる形を目指したのだろうと考えられます。

 

玉緑茶

 

玉緑茶」という名称は、この時期に国内向けにも売り出そうと、茶業組合中央會議所が1932(昭和7)年に公募したものです。佳作には「日の丸茶」「富士山茶」「勾玉茶」などが見えます。「深蒸し茶」の名称選択の時もそうですが、様々な候補からこの名が選ばれたのか思うと、日本茶の歴史を知る楽しさを改めて味わっていただけるのではないでしょうか。

 

海外向けには、中国茶の名称に基づき、篩分けしたサイズ別に「ハイソン」「チュンミー」「ソーミー」と呼ばれましたが、国内向けの「玉緑茶」には、大型を「」、中型を「」、小型を「小桜」と命名するなど、とても洒落ていました。

 

そして、日本茶業史 続篇』には、こんな言葉で玉緑茶にエールを送っています。

 

「玉緑茶よ、永遠に我が茶業界にさきさくあれ」

 

日本茶業史 続篇』が刊行されたのは、昭和11年です。

昭和初期の玉緑茶への期待が読めますね。

日本茶業史 続篇』p235-236



前述の『茶業試験場彙報 第4号 輸出向特種製茶法』には、外観を重んじるアメリカや日本に対し、ロシアは「実質」、香味を見るとあり、玉緑茶は茶の本質を伝えられる茶の象徴としてもあったようです。(p6)

 

そして、ロシア、モンゴル向けに「ワイザン茶」というのもありました。

ワイザン茶については別途ご紹介します。

 

 

 

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吉野亜湖
静岡大学非常勤講師・ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員

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全国農業会茶業部編『日本茶業史 第3篇』全国農業会1948年

 

静岡県茶業組合聯合会議所編『静岡県茶業史 続篇』静岡県茶業組合聯合会議所、昭12年

知られざるお茶の裁判 (1) カーター&メーシー編

日本茶の最大輸入国であるアメリカで起きたお茶の裁判をいくつかご紹介したいと思います。

まずは、大正時代のお話です。

カーター&メーシー商会が、「これは納得ができない」と訴訟を起こします。
1915年6月に勝訴判決が出ています。

静岡にも支店があった全米一大きな茶商です。

その約20年ほど前(1897年)、アメリカで食品衛生に適さない混ぜ物や茶葉以外の茶を用いたりなどの不正な輸入茶を取り締まる条例(不純不正茶輸入取締条例)が施行されました。

19世紀後期、他の食品への安全性についてアメリカ人が意識し、条例を整備し始めた時期でしたので、茶も当然、その範疇に入ってきたわけです。

しかし、
健康被害がない良質な茶を輸入するという目的で作られたはずが、20年間にわたって、法律的根拠を持たない方向へも独り歩きしてしまっている状態になったというのです。

輸入茶が、どのようにチェックされていたかというと、「財務省の規則」により「基準」が選択され、茶委員会(tea board)が、基準茶と比較審査されるという形です。

カーター&メーシーが指摘したのは、その「基準茶」が良質なものでないため、良質な茶が審査から落とされてしまったという、驚くような内容です。

この件で明らかになったのは、茶委員会が招集した専門家が審査する間は、いわゆる密室状態(輸入者は審査を見せてもらえない)で行われるため、隠蔽も可能ということです。これは法律上あり得ないことだと指摘されています。

そして、実際に調査したところ、委員会は、基準茶の選出や、審査を専門家に委任していたため(いわゆる任せっきり)、委員自身が再確認することはこれまでなかったこともわかったそうです。

この裁判は、カーター&メーシーが勝利し、食品の安全基準を満たせば、他の食品と同様に茶にも着色などの添加も可能ということが認められました。

(それまでは、1911年に健康に被害がない着色でも茶に関しては輸入禁止、という厳しい規則があったのですが、他の食品で認められている添加物を拒絶するのは逆に違法だという結論がくだったのです。これは茶業界にとって衝撃の判決だったことが、当時の新聞報道でもわかります。)

tea & coffee trade journal 1916, september



tea & coffee trade journal 1916, september:243

The Tea And Coffee Trade Journal (1916) Vol.31 : Flagg, John F., Ed. : Free Download, Borrow, and Streaming : Internet Archive

carter & maycy co.

Carter, Macy & Co., Inc.... - NYPL Digital Collections


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吉野亜湖
静岡大学非常勤講師・ふじのくに茶の都ミュージアム客員研究員

日本茶文化史、近代の茶業史、茶道史を研究しています。
オンライン日本茶勉強会など主催中:FB(吉野亜湖)にメッセージ下さい。






 

わび とは? その二

わびとは何か?

の続きです。

 

珠光の時代

 

数江氏は、「珠光は、唐物道具に対する美的視点を転換させてしまった。」と言います。

 

珠光は、利休さんの二世代前の茶人です。

 

皆さんは「珠光青磁」茶碗というのをご存じですか?

珠光が好んだという茶碗は、

澄み切った高貴性をたたえた青磁でなく、

うす茶褐色の濁り混じった味わいのものでした。

 

紹鴎の時代へ

 

利休の師匠とされる紹鴎(じょうおう)の「侘びの文」と呼ばれている手紙の中に、以下のように「わび」が定義されています。

 

正直に慎み深くおごらぬ様という清浄な心の在り方を「わび」という。

 

この「わびの文」の全体は、一切の虚飾を捨て去った心の状態、禅的に言えば、人間本来の面目(無一物の境地)に立ち還ることに軸足を置いているような内容です。

 

そして、具体的に、初心者が「冷え枯れる」と言って、備前だ、信楽だというような独りよがりの道具をふりまわすことではなく、真正な良い品を徹底的に知り尽くした上ではじめて「枯れた」境地も会得できる、というのです。

 

「この美意識は、対象に対して、新しい美を見出す創造的な力のことであった。」(111頁)

 

利休の時代

 

しかし、利休の時代になると、また一歩すすみます。

利休は、既存の名物道具への価値観を抜け出し、自ら望む姿の茶道具を「創作しはじめた」というところに特徴があるということです。(依田 14頁)

 

ここからは、『近代「美術」と茶の湯』依田徹著からみていきましょう。

 

「わび」は、隆盛以降の隠者たちの草庵生活で、「わびしさ」だけでなく、世俗の名誉や利害を重んじる価値観から自由であり、簡素な生活態度や閑寂な風情を積極的な意味で評価していく。

 

「さび」は、江戸時代、松尾芭蕉にも継承され、「既存の秩序や価値観から自由に解放され、世界内の「自己」とそれをとり巻くいっさいの事物をそのあるがままの姿に於て認識」しようとする態度として位置づけられた。

 

「さび」は「さぶ」「さびし」「さびたる」という用語が名詞化したもので、これも平安時代末以降に肯定的にとらえられ、室町時代には、和歌の世界で重んじられる価値観になっていく。(34-35頁)

 

そこから、「わび」は茶の湯と結びついて簡素さを示し、

「さび」は俳諧と結びついて、古びた味わいという意味を強める。

 

 

私が、「さび」とは?
と聞かれたときに「鉄が錆(さび)る感じですかね」と答えると、「いやいや、それは漢字が違うだろう」と言われましたが、実際、そんな感じなのです。

 

古典の授業で、徒然草に、漆が新品でピカピカな状態よりも、使い込んでうっすらはげた感じも趣あるというのを読みましたが、これは「さび」という感覚です。

 

そのため、絵にすると、、、

それまであったものが無くなる寂しさ、余情を楽しむような感じなので、

陽が陰に向かっていく状態「さび」

 

もともと十分では無い、不足している状態が「わび」、だからこそ工夫したり、今あるもので楽しんだり、創造するという境地、むしろそれが自然そのものだという状態で、よって絵にすると、陰が徐々に陽に向かいながらある、その先がワクワクするような、想像力を掻き立てられるような状態。

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そんな風に私は感じています。



きっと、お茶をしていない人が「わびさび」と両方合わせた言葉を使うときは、枯淡のイメージを言われているのかと感じますが、

実際、茶道をしている人から、「わびさび」と聞かないのは、やはり、「わび」が茶道で目指す境地(枯淡というより創造のパワーを感じる)ということがあるのかもしれませんね。

 

また、谷晃氏は、

 

「わび」は茶の湯において目指すべき境涯を指す「生活の理念」で、

「さび」は、「文学の理念」である。(=わび茶が表出する美を規定して説明する語句)

 

 

としています。(36頁)

・・・ということは、

「わび」は精神的な面(思想とか心の在り方とか)を指し、その精神を実践する所作や、その思想が表に現れた道具類などにも感じられるもので、

「さび」は表面的な形や道具の様子とか目に見える有様、風情に対して感じるものなのかもしれません。

またまた、「錆」のお話で恐縮ですが、

茶の釜をほっておいて錆が出てしまうのは、茶人として失格ですが、

きちんと手入れをしても自然に錆てしまうときもある。

(それをヤスリで磨いてピカピカにしたり、油でテカテカにせずに)

そのまま使うのは、自然であり、ある意味、「さび」た風情ですよね。

 

というと、「わびさび」と言われれば、茶の精神性と見た目を合わせて感じているという言葉なのかもしれません、と思えてきました。

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そして江戸時代

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江戸時代中期以降、茶書の出版が盛んになると、

逸話集や茶道書で、「わび」は茶人の理想的な精神的境地として語られるようになります。

 

また、近代へと、つづく

(次回のメモです。近代に、「わび」「さび」に関しては、昭和初期のナショナリズムの高まりの中で、取り上げられ、戦中、積極的に美術史で強調されていくそうです。)
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吉野亜湖(茶道家